Vannozza dei Cattanei

ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ

Vannozza dei Cattanei
生没
1442年4月9日~1518年11月26日
没地
ローマ
ヤコポ・デイ・カッタネイ
メンチア・ピンクトリス
ドメニコ・ダ・リニャーノ
ジョルジョ・デッラ・クローチェ
カルロ・カナーレ
アレクサンデル6世
チェーザレ・ボルジア
フアン・ボルジア
ルクレツィア・ボルジア
ホフレ・ボルジア
オッタヴィアーノ・デッラ・クローチェ

概要

 ヴァノッツァ・デイ・カッタネイは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1442年4月9日

マントヴァ(ブレシア)にて、生(1442年7月13日)。77年4か月13日生きたと墓碑にあったという。Vix ann. LXXVI m. IV d. XII Objit anno MDXVIII XXVI, Nov.

1460年

マントヴァ公会議でロドリゴ・ボルジアと知りあう(1466年、1467年)。

1474年

ドメニコ・ダ・リニャーノと結婚。

1475年9月13日

スビアーコアッバツィアーレ要塞にて、チェーザレ・ボルジアを出産(1475年4月、1475年9月14日、1476年4月、1476年9月13日)。

1476年

フアン・ボルジアを出産(1474年、1477年)。

1479年4月19日

スビアーコアッバツィアーレ要塞にて、ルクレツィア・ボルジアを出産。(1479年4月29日、1480年4月18日)。

1480年

いつ結婚したのかは不明だが、この年にはジョルジョ・デッラ・クローチェの妻として、ロドリゴ・ボルジアの宮殿から数歩の、ピッツォ・ディ・メルロ広場に面した邸宅に暮らしている。

1481年

ホフレ・ボルジアを出産(1482年)。ロドリゴ・ボルジアは彼を認知はしたものの、自分の子供とは信じず、ジョルジョ・デッラ・クローチェが父親だと考えていたようである。

1482年

この頃ロドリゴ・ボルジアとの関係は少し疎遠になる。

148?年

オッタヴィアーノ・デッラ・クローチェ出産。

この頃、ローマのいくつかの居酒屋の貸借人であり、サンタ・ルチア・イン・セルチ教会の近くの葡萄園と別荘を、チェザリーニから購入している。

1486年6月8日

カルロ・カナーレとの婚姻契約を結ぶ。ボルジア家の公証人カミッロ・ベネイムベネによって契約書が作成され、教皇秘書及びサン・ピエトロ大聖堂司教座聖堂参事会員フランチェスコ・マッフェイ、市民ロレンツォ・バルベリーニ・デ・カテッリニス、ローマの裕福な商人ジュリアーノ・ガッロ、ブルカルド・バルベリーニ・デ・カルナリス他が証人。持参金は1千フィオリーノと、カルロ・カナーレsollicitator bullarumに任命されること。(1486年6月6日)

なぜか、この契約書には2番目の結婚と明記されている。

アレヌーラ地区のブランカ広場に面した、おそらくヴァノッツァ・デイ・カッタネイ自身が所有していた家に居住。ルクレツィア・ボルジアホフレ・ボルジアアドリアーナ・デル・ミラに引き取られる。

当時、カンポ・デ・フィオーリ広場にヴァッカ、ビッシオーネ、フォンターナという3つの宿を経営。又は、Biscione(蛇)、La Vacca(牡牛)、Sole(太陽)、Fontana(泉)という4つの宿を経営。宿屋ヴァッカ跡地にはヴァノッツァ・デイ・カッタネイの紋章が現存。カンポ・デ・フィオーリのすぐ東にビッシオーネ広場という地名があるため、宿屋ビッシオーネもその辺りにあったものと思われる。

サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会北にあるスブッラ広場にある庭と葡萄園付きの邸宅を購入。トッレ・ディ・ノーナ向かいのオルソ通りにアルベルゴ・デル・レオーネという居酒屋兼宿屋を経営。

1494年12月31日

シャルル8世ローマ入城。ブランカ広場に面した館がフランス軍によって手酷い略奪を受けるが、たぶんヴァノッツァ・デイ・カッタネイ自身は避難して無事。

1497年6月14日

サンティ・シルヴェストロ・エ・マルティーノ・アイ・モンティ教会サンタ・ルチア・イン・セルチ教会の中間にヴァノッツァ・デイ・カッタネイが持っていた葡萄園の別荘の戸外で、宴を主催。チェーザレ・ボルジアフアン・ボルジアフアン・デ・ボルハ枢機卿他親類を招待。

フアン・ボルジアが暗殺される。

1502年11月

同じアレヌーラ地区に住む金細工職人ナルド・アントナッツィから1500年に制作した銀の十字架の支払がされておらず、「チェーザレ・ボルジアが街全体とほぼイタリア全体を支配していた時には」よく起こったこととして告発される。この件に関する文書全部は残っていないが、証人の発言によると名誉毀損訴訟を起こすに足る根拠はあったようである。

1503年8月12日

アレクサンデル6世が倒れる。

1503年8月13日

チェーザレ・ボルジアも病床に就く。チェーザレ・ボルジア軍の保護下に身を置く。

1503年8月18日

アレクサンデル6世死。この時すでに未亡人だった。ボルゴハイメ・セッラ・イ・カウ枢機卿の宮殿に滞在。

1503年9月2日

ホフレ・ボルジアルイーズ・ボルジアロドリゴ・ダラゴーナ、ネピ公インファンテ・ロマーノと共に、チェーザレ・ボルジアに同行しネピ到着。近くにフランス兵が駐屯。

1503年9月22日

教皇ピウス3世即位。ネピからローマに帰る。

1503年12月4日

サンタ・マリア・デル・ポポロ教会ピッツォ・ディ・メルロ広場の邸宅と礼拝堂を譲渡し、生きている間使うことを留保。

1503年12月

この頃もボルゴハイメ・セッラ・イ・カウ枢機卿の宮殿に住む。

1504年初め頃

ルドヴィーコ・マッテイから訴えられる。1503年3月、チェーザレ・ボルジアオルシーニ家と戦闘中、ジャン・ジョルダーノ・オルシーニの妻マリーア・チェチーリア・ダラゴーナから安全のためルドヴィーコ・マッテイの牧場へ運ばれていた千百60匹の羊を、雇った使用人を使って盗んだとして、有罪判決を受ける。

1504年4月1日

この時には、コロンナ家の勢力の強いトレヴィのサンティ・アポストリ広場辺りに住む。

他の邸宅をローマ人ジュリアーノ・デ・レニスに売却したが、この日、彼はアレクサンデル6世の死の影響を恐れて行われたことだったとして、その売買契約を無効にする。

1513年7月6日

ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿に、ヴィテルボ近くのBledaブレーラ?)が金額を払っていないとの苦情を寄せる。

1515年11月頃

ホフレ・ボルジアの10歳の息子フランチェスコ・ボルジアを教育のため引き取る。

1515年12月19日

ローマにて、娘ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。

 淑女様へ。ごきげんよう。アガピート・ゲラルディーニの私たちの公に対する貢献と、私たちに示してくれた愛情を、好意を持って覚えておいででしょう。そこで、彼の親類を助け、可能な限りよくしてあげて欲しいのです。死の直前に、彼は自分の甥ジョヴァンニ・バッティスタ・アクイラのために、録を手放しました。カプア司教区のものを含みますが、ほんの少しです。もしあなた様が親切をお施しになられるなら、上記のような次第で、彼ら甥たちの利益に関心を持ってくださいますようお願い申し上げます。この手紙を持参する、自身がアガピート・ゲラルディーニの甥であるニコラが、何をすべきか詳細について説明するでしょう。さようなら。
 追伸。上の如く書いたように、義務感から、これについてあなた様は最善と思われるようになさるでしょう。故に、あなた様がご存じの範囲のことをなされば、神様はお喜びになられるでしょう。現在に関する限りでは、あなた様がいいとお考えになるように、お答えになるでしょう。いつもあなた様のために祈っているヴァノッツァより。

1517年1月15日

遺言状を作成。サン・サルヴァトーレ・イン・ラテラーノ病院、サンタ・マリア・イン・ポルティコ教会付属病院、ミネルヴァ広場のアヌンツィータ教会病院、サン・ロレンツォ・イン・ダマーゾ教会への寄付。公証人アンドレア・カロージの文書付。

1518年11月26日

ローマにて、死(1518年11月24日)。パオロ・ジョヴィオが死を告知。枢機卿のような豪華な葬儀であったという。相当な遺産は全てサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂に寄付。サンタ・マリア・デル・ポポロ教会に葬られる。

1594年

教皇クレメンス8世の命により、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会にあった墓は取り除かれる。

1???年

保存されていた墓石は、サン・マルコ・エヴァンジェリスタ・アル・カンピドリオ聖堂の柱廊に付けられる。

備考

 晩年、パオロ・ジョヴィオと面識になる。
 晩年、カラドッソに2千ドゥカートで注文。

肖像

注文

墓碑

関連項目

 The Borgias: 101, 102, 103, 104, 105, 106, 107, 109, 201

別表記

 ヴァノッツァ・カタネイ、Vanozza de CataneisVanozza CataneiGiovanna de' Catanei

外部リンク

 ウィキペディア
 チェーザレ・ボルジアに守護された楽園ローマ
 ボルジア解体新書
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 kleio.org
 Redirectify.com
 RootsWeb.com
 The Borgias Fan Wiki
 THE BORGIAS wiki
 Thefamousblueraincoat's Blog
 Treccani.it
 Virtual ROMA

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前