- 生没
- 1483年11月10日~1546年2月18日
- 妻
- Katharina von Bora
概要
マルティン・ルターは、15世紀から16世紀のドイツの男性。
年表
1483年11月10日
宗教改革者マルティン・ルター、ドイツテューリンゲンのアイスレーベンに生(1483年~1546年)。
1500年
聖年:ローマに巡礼。
1517年10月31日
宗教改革の開幕:マルティン・ルター、ヴィッテンベルクで贖宥状の販売に対する『95か条の意見書』を公表。
1518年6月
レオ10世、マルティン・ルターに対しローマに出頭して審問に応ずるよう命令。しかしマルティン・ルターの庇護者ザクセン選帝侯フリードリヒ3世の尽力によりローマでの審問は回避される。
1518年10月12日~1518年10月14日
レオ10世、アウグスブルクの帝国議会に出席していた枢機卿Jacobus Cajetanusにその宿所フッガー家でマルティン・ルターを審問させる。マルティン・ルターはJacobus Cajetanusの改悛要求を拒否。
1519年3月28日
マルティン・ルター、エラスムスに書簡を送り、教会との対決を支援するよう間接的に要請。
1519年5月30日
エラスムス、マルティン・ルターに返書を送り、彼の著書はなお未読なので彼への賛否は決しかねるとした上、自分は学問に身を捧げる、「性急さ」よりも「謙虚さ」によってこそ目的を達し得る、と述べて彼を支持できないことを間接的に伝える。
1519年7月4日~1519年7月14日
マルティン・ルター、神学者J. Eckの挑戦に応じて同僚Karlstadt及びP. Melanchthonと共にLeipzigで神学論争を行い、教皇の首位性、公会議の無謬性を否定すると共にジャン・フス(1370年頃?~)の処刑(1415年)を批判。
1519年10月22日
レオ10世とフランソワ1世、イタリアにおける相互の領国(メディチ家の支配領を含む)の安全保障協定を極秘裏に結ぶ。これによりフランソワ1世にナポリ王位を認めてカール5世に認めないこと、フランソワ1世はレオ10世によるフェッラーラの奪回を認めることを実質上、合意。
しかしマルティン・ルター及びルター派に対処する上でカール5世の協力を欠かせないレオ10世、この協定を知らずなおレオ10世の支持を信ずるカール5世とも裏面での折衝を続ける。
1520年4月~1520年7月
コムネロスの反乱。カール5世の集権的支配によって特権を圧迫されたCastillaの諸都市、自治組織Comunidadを結成し、カール5世のネーデルラント人支配、反スペイン政策打破を目指して武装反乱。Juan Manuel(在位1520年4月~)は、この日付のカール5世への書簡で、マルティン・ルター問題への対応いかんがレオ10世のカール5世への対応を決するとした上で、ドイツに行ってもマルティン・ルターへの好意的言動はとらないよう強く勧奨。
1520年6月15日
レオ10世、マルティン・ルターに対し破門威嚇の勅書を発する。
1520年8月中旬~1520年11月中旬
マルティン・ルター、1520年8月中旬An den christlichen Adel deutscher Nation von des christlichen Standes Besserung(キリスト教界の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族へ)、1520年8月下旬、De captivitate Babylonica ecclesiae praeludium(教会のバビロニア捕囚)、1520年11月下旬、Von den Freiheit eines Christenmenschen(キリスト者の自由)、と相次いで所謂宗教改革三大文書を、いずれもヴィッテンベルクで刊行。ローマ教皇、教会の権威を否認し万人司祭の理念を展開するなど、宗教改革思想を力強く開示して教皇、教会に最終的な決別を告げたこれらの文書、ヨーロッパ各地に急速に普及。
1520年10月11日
マルティン・ルター、、レオ10世の破門威嚇の勅書を受け取る。
1520年12月10日
マルティン・ルター、、教会法典3巻と共にレオ10世の破門威嚇の勅書を公衆の前で焼却し、ローマ教皇、教会との決別を具体的に示す。
1521年1月3日
レオ10世、マルティン・ルターに破門勅書を発する。
1521年4月15日
パリ大学(Sorbonne)神学部、マルティン・ルター及び穏健な教会改革主義者J. Lefèvre d'Etaplesを異端と宣言。
1521年4月17日~1521年4月18日
カール5世によって初めて召集され、帝国改革を主題議題として開会されたヴォルムスの帝国議会、マルティン・ルターを審問。自らマルティン・ルターに所説の撤回を求めるが彼に峻拒され、1521年4月19日、彼を異端と宣言。
しかし、帝国議会へのマルティン・ルター召喚の報を早くから得ていたレオ10世及び教皇庁、教皇がすでに破門した人物の公的召喚、審問に強い不満を抱く。
1521年5月4日
マルティン・ルター、ヴォルムスからヴィッテンベルクへの帰途ザクセン選帝侯フリードリヒ3世の保護され、以後、彼の保護の下Eisenachの近郊Wartburg城で新約聖書ギリシア語原文のドイツ語訳に専心(~1522年)。
1521年5月26日
ヴォルムスの勅令:帝国議会でマルティン・ルター論難を主導した教皇特使Girolamo Aleandroがまとめた1521年5月8日付の勅書を発してマルティン・ルターとその同調者の帝国追放、その著作の没収、焼却と刊行、購読、販売の禁止を告示し、反宗教改革に先鞭をつける。
1521年7/8月
ヘンリー8世、トマス・モアの助力を得てマルティン・ルターのDe captivitate Babylonica ecclesiae praeludium(教会のバビロニア捕囚)を反駁するAssertio septem sacramentorum(七秘蹟擁護論)を執筆。これにより1521年10月、レオ10世より信仰の擁護者(Fidei defensor)の称号を受ける。
1521年8月1日
パリ高等法院は、マルティン・ルターの著作を所持することなどを禁止。
1522年2月
マルティン・ルター、新約聖書のドイツ語訳を完成。
1522年3月9~16日
マルティン・ルター、Wartburgの城を出てヴィッテンベルクに帰り、連日、大学のみならず市全体を事実上支配するに至ったKarlstabtら熱狂主義者の急進的運動を批判する説教を行って運動を鎮静させる。この説教を通してマルティン・ルター、社会変革の具体的な運動に背を向ける姿勢を明確に示す。
1522年9月21日
マルティン・ルター、『ドイツ語新約聖書』をヴィッテンベルクで刊行。以後この聖書は版を重ねて急速に全ドイツ語圏に普及し、近代ドイツ語の基礎をも与えたのみならず、他の諸言語への聖書翻訳の底本となる。
1522年12月1日
自分のかつての神学講義の聴講生エラスムスから、自分の教皇即位後に、彼のカトリック信仰を証言する書簡を受け取っていたハドリアヌス6世、この日、彼にその学識をマルティン・ルターに向けるよう要請する書簡を送る。
1522/1523年
1522年9月のマルティン・ルターの『ドイツ語新約聖書』からのオランダ語訳新約聖書、Antwerpenで刊行される。
1523年1月23日
ハドリアヌス6世、エラスムスに再び書簡を送り、彼をローマに招くと共にマルティン・ルターを論駁するよう重ねて要請。
1523年3月22日
エラスムス、ハドリアヌス6世に書簡を送り、一派に与して争いに加わるよりは死を選ぶとマルティン・ルター論駁を冷たく断る。
1523年3月
マルティン・ルター、Von weltlichen Obrigkeit, wieweit man ihr Geborsam schuldig sei(この世の権威について一人はこれに対してどこまで服従の義務を負うのか)をヴィッテンベルクで刊行。
1524年4月15日
マルティン・ルター、エラスムスに書簡を送り、「我々の悲劇の単なる傍観者」に留まって欲しいと述べて自分への批判を差し控えるよう間接的に要請。
1524年7月半ば
この頃マルティン・ルター、Ein Brief an die Füsten zu Sachsen von dem aufrührerischen Geist(暴動を喚起する霊の持ち主に関するザクセン諸侯宛の書簡)を公表し、悪魔の所業である暴動、反乱を扇動するMüntzerは悪魔の霊の持ち主だと彼を激しく攻撃。Müntzerは直ちに反論を構想。
1524年9月1日
エラスムス、Diatribe de libero arbitrio(自由意志論)をバーゼルで刊行し、マルティン・ルターを論難。
1524年9月
マルティン・ルター、Von Kaufhandlung und Wucher(商業と高利について)をヴィッテンベルクで刊行。
1524年12月/1525年1月
マルティン・ルター、Wider die himmlischen Propheten von den Bildern und Sakrament(天来の予言者どもを駁す——聖像と秘蹟について)をヴィッテンベルクで刊行。
1525年5月9日
マルティン・ルター、Ermahnung zum Frieden auf die 12 Artikel der Bauernschaft in Schwaben(シュヴァーベン農民の12ヶ条に対する平和の勧告)を刊行して農民に祈りを、領主に譲歩を勧告。
1525年5月中旬
マルティン・ルター、Wider die räubischen und mörderischen Rotten der Bauern(略奪、殺人を事とする農民暴徒を排撃する)をヴィッテンベルクで刊行。
この中で農民を「狂犬」、彼らの仕業を「悪魔の業」、指導者Müntzerを「悪魔の頭目」と決め付け、彼らへの「忍耐も憐れみももはや必要ない」として領主に彼らを徹底的に「叩き殺し絞め殺し、刺し殺すべき」だと強く勧告。以後農民はマルティン・ルターに失望し、彼を「嘘つき博士」と罵って彼から離れ、彼は民衆に失望して教会を領主の強権に委ねる姿勢を強める。
1525年6月13日
マルティン・ルター、修道院を逃亡したKatharina von Boraと結婚し、自説を実践。
1525年末
マルティン・ルター、De servo arbitrio(奴隷的意志論)をヴィッテンベルクで刊行してエラスムスに反論し、彼と決別。マルティン・ルターの孤立化、深まる。
1526年2月20日
この月、自分に対するマルティン・ルターの反論を入手して一読したエラスムス、直ちにHyperaspistes adversus servum arbitrium Lutheri(ルターの奴隷的意志論に対する反論)を執筆し、この日に序文を付して印刷に回す。1526年2月または1526年3月バーゼルで刊行。
1526年4月11日
エラスムス、マルティン・ルターに書簡を送り、自分に対する彼の「気狂いじみた罵言」、「攻撃」を指摘した上、「要するにあなたは聖俗一切の事柄を混乱に投げ込むように福音の旗印を押し立てている」と厳しく批判。
1526年11月初旬
カール5世の傭兵隊長でマルティン・ルターに共感を抱くゲオルク・フォン・フルンズベルク(1473年~1528年)、ルター派信徒で教皇に反感を抱く傭兵(Landsknecht)を率いてイタリアに侵攻し、まずロンバルディアを目指す。
1527年1月
マルティン・ルター、Ob Kriegsleute auch in seligen Stande sein können(軍人もまた救われ得るか)をヴィッテンベルクで刊行。
1527年3月30日
エラスムス、トマス・モアに書簡を送り、自説を展開した上、マルティン・ルターに対する反論の続編を執筆する意図を披瀝。
1529年1月20日
マルティン・ルターDer kleine Katechismus(小教理問答書)をヴィッテンベルクで刊行。
1529年4月23日
マルティン・ルター、Der große Katechismus(大教理問答書)をヴィッテンベルクで刊行。
1529年6月
トマス・モア、1528年執筆したA dialogue concerning hercies and matters of religion, against Tyndale(異端に着いたの対話、ティンダル駁論)をロンドンで刊行。この中でW. Tyndaleの英語訳聖書(1525年)やマルティン・ルターの福音主義的信仰を異端と批判。
1534年10月
マルティン・ルター、同志たちの協力を得て旧約聖書ヘブライ語原文からのドイツ語訳を完成し、新訳の翻訳(1521年、1522年)を修訂したものと合わせて全聖書原典からのドイツ語訳をヴィッテンベルクで刊行。
1536年4月9日
マルティン・ルター、Thomas Cromwellに書簡を送り、彼のイングランドにおける活躍を嬉しく思っていると激励。
1537年3月9日
教会改革九人委員会、Consilium de emendanda ecclesia(教会改革草案)をパウルス3世に提出。
間もなく外部に漏洩したこの教会改革草案を知ったマルティン・ルター、これをドイツ語で公刊して嘲笑を加え、筆者たちを「嘘吐き」、「いかさま師」と決めつける。
1541年7月28日
レーゲンスブルク帝国議会、閉会(1541年4月~)。宗教討議(1541年4月~1541年5月)で成立を期待された義認をめぐる和解、カトリック側ではパウルス3世の、プロテスタント側ではマルティン・ルターの峻拒に会って成立せず、3次にわたる宗教討議は失敗に終わる(1540年~)。
1545年3月
マルティン・ルター、Wider das papstum zu Rom, von Teufel gestift(悪魔につかれたローマ教皇を駁す)をヴィッテンベルクで刊行し、「悪魔」・「悪魔の使徒」・「ペテン師」・「地獄の王」である教皇とその一派は公会議によって何も改革できない、彼らが改革を考えるなどとは笑止の沙汰だと、教皇・教会をこれまでのいずれの作品にもまして激越に非難。
1546年2月18日
未明マルティン・ルター、アイスレーベンで病死(1483年~)。4日後、遺体は盛大な葬列と共にヴィッテンベルクに帰り、Melanchthonの荘重な弔辞を受け、ヴィッテンベルク城教会の説教壇近くに埋葬される。
別表記
マルチン、ルーテル
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『修道院』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『メディチ家の人々』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの華』
『ローマ教皇検死録』
『Lucretia Borgia』
記載日
2005年5月29日以前