- 生没
- 1568年~
概要
ジューリア・デリ・アルビッツィは、16世紀頃のイタリアの女性。
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガはマルゲリータ・ファルネーゼを妻としていたが、夫婦関係不成立のため彼女との結婚を解消。新たにエレオノーラ・デ・メディチとの再婚することになったが、メディチ家からその前にヴィンチェンツォ・ゴンザーガの男性能力を証明することを要求される。その試験台として選ばれた女性が、ジューリア・デリ・アルビッツィだった。
年表
1568年
生。
1574年
ピエタの家という孤児院にジューリア・ディ・チェーザレ・ダ・フィエーゾレという名の8歳の少女が受け入れられている記録がある。慈善施設に入れられた子供の親の名前が伏せられたり偽名が用いられることは珍しくなく、父親はアルビッツィ家の人間だったとも言われている。
1583年5月26日
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガとマルゲリータ・ファルネーゼが離婚。
1584年2月22日
トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチの側近ベリザーリオ・ヴィンタの屋敷へ連れて行かれる。
当時交わされていた手紙には、彼女がアルビッツィ家の庶子であることを示すことは書かれておらず、ジューリアという名前か「対象」とか「若い女性」などと呼ばれている。
また、ヴィンチェンツォ・ゴンザーガの男性能力を証明するための「試験」について、どの程度知らされていたのか、それに同意したのかを示すことも書かれていない。
1584年3月8日(木)
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガがヴェネツィアに到着。すぐに会いに来るが、彼が旅のせいで疲れていてはいけないので試験は実施されず。
1584年3月9日(金)
夜、再びヴィンチェンツォ・ゴンザーガが訪れるが、贖罪の日の金曜日は禁欲しなければならないとされているので、実施されず。しかし、聖週間に入る前までには試験を終わらせる予定。
1584年3月11日(日)
夜、ベリザーリオ・ヴィンタが別室に控える中、試験が実施されるが、失敗に終わる。
1584年3月14日(水)
夜、再び試験実施。成功する。
1584年3月15日(木)
朝、隣に横たわっているヴィンチェンツォ・ゴンザーガが、医師ピエトロ・ガッレットによる診察を受ける。陰茎の付け根に瘻孔があるが、性交の障害とはならないと診断される。(梅毒の初期症状)
ベリザーリオ・ヴィンタの質疑に答える。この時、処女喪失したようには思えない、などと発言したために少し疑惑が残った。
1584年3月18日(日)
夜、試験の成功を確かなものとするため、もう1度実施される。
1584年3月19日(月)
恐らくこの日、ヴェネツィアを去る。
以後の記録はなく、ピエタの家にも戻ってはいない。ピエタの家の記録にジューリアがいつそこを去ったのかという記録もまたない。
ただ、メディチ家は当初、試験台となる女性を女子修道院へ送り、子供は捨て子養育院へ入れる予定ではあった。
子供を出産した後、3千スクードの持参金つきで、ジュリアーノというフィレンツェに住むローマ人音楽家の妻になった、と18世紀の日記に書かれている。
1584年4月29日(日)
塩野七生著『ジュリア・デリ・アルビツィの話』
素性
ピエタの家(Casa della Pietà)は、ボルゴ・オニッサンティ通りのサンタ・マリア・デッルミータ施療院にあった孤児院で、アルノ川の少し北にある。1588年からサン・ジョヴァンニ・ディ・ディオ施療院という名前に変わっている。
塩野七生は『愛の年代記』収録「ジュリア・デリ・アルビツィの話」を書くための資料の1つとして、Timothy J. McGeeの論文『Pompeo Caccini and Euridice』を参照したようだ。ジューリアが試験当時21歳であり、子供を出産した後ジューリオ・カッチーニと結婚し、1600年以前に亡くなった、というような記述は全てここに載っている。しかし、「三男」で10年前に「騎馬競技会で落馬したのが元で死ん」だとされる父親や、その「召使」でジューリアを産んで1年を経たずして亡くなった母親や、アルノ川の南側の街区である「サント・スピリト区の祖父母の家」に住んでいたというような筋書きは、どんな資料に基づいて書かれたのだろう。Nicholas Terpstra著『Lost Girls』を読むと、かなり話の印象が違う。
選ばれた理由
「いかに試験台だけの役目とは言え将来のマントヴァ公が相手では、平民の娘では礼を失する」ので、「貴族アルビツィの血は受けていても私生児の生まれの」ジューリアが選ばれたとあるが、そもそも初めからベリザーリオ・ヴィンタは幾つかの孤児院のようなところを尋ねて回っていたようなので、そのような理由で彼女が選ばれたわけではない。容姿と年齢が求められていた基準に達していて、自分たちの思い通りにできる社会的地位の低い女性、それがジューリアだったのである。父親がアルビッツィ家の人間だったのではないかと言われているのは、1584年5月14日付ジューリオ・ブジーニからベリザーリオ・ヴィンタ宛書簡に「una figlia delli Albizzi bastarda」との記述があるというだけで、例の試験の時にアルビッツィ家が少しでも関わりを持っていたかは疑わしく、アルビッツィ家の屋敷にジューリアが連れてこられ、その当主に会ったというようなこともなかったであろうと思われる。
結婚
ジューリオ・カッチーニと結婚したという話は、Timothy J. McGeeがその論文の中で、ジューリオ・カッチーニと結婚したルチア・ガニョランティが、実はジューリアと同一人物なのではないかと主張しているものによるようである。根拠薄弱なトンデモ説で、ジューリオ・カッチーニが1600年には再婚していたという記述から、塩野七生はジューリアが1600年の記録ではすでに亡くなっていたとしたらしい。しかしながら、ジューリアが「どのように暮らしていたかについて、当時の記録は沈黙して語らない」とはいうものの、ルチア・ガニョランティは声楽家であり、幾つかの公演で彼女が歌っていたという記録は存在している。
出産後に3千スクードの持参金つきでジュリアーノなるローマ人音楽家と結婚したという話も、かなり怪しげである。そのように日記に書いたのは、Niccolò Susierなる、メディチ宮廷でテオルボという楽器を演奏していた人物であり、生没年は分からないが18世紀に生きていたことは確かだ。そんな百年以上にも後になって書かれたものなんて当てにできない。その日記の文章をネット上でいくら探しても出てこなかったので、どういう経緯で彼がジューリアのことを持ち出したのかは分からないが、当時未だに例の試験のことが宮廷で話されていたとは驚きである。それだけ有名な話で口頭では伝えられていたが、秘密にしておきたかった事実であったためあまり文書という形では残っていないということなのだろう。そんなわけで、ジューリアがヴィンチェンツォ・ゴンザーガの子供を妊娠したのか、その後結婚するなり修道院に入るなり何らかの生活の保障を与えられたのかも、結局これという記録はないことになる。
小説
塩野七生『愛の年代記』収録「ジュリア・デリ・アルビツィの話」
漫画
愛田真夕美『まんがグリム童話 性に汚された花嫁』
別表記
ジュリア・デリ・アルビツィ、ジュリア・デリ・アルビッツィ
外部リンク
ウィキペディア
資料室
BNF - Nègociations diplomatiques de la France avec la Toscane. Tome 4
Journal Publishing Services - Pompeo Caccini and Euridice
Cronologie e acronimi
Google Books - El più soave et dolce et dilectevole et gratioso bochone
Google Books - Il Bibliofilo: Giornale dell'arte antica e moderna
Google Books - Lost Girls: Sex and Death in Renaissance Florence
Reviews in History
Royal Favourites
参考文献
『愛の年代記』
『Bibliotechina Grassoccia』
『Lost Girls』
記載日
2005年5月29日以前