Gianandrea Bocciazzi

ジャナンドレア・ボッチャッツィ

生没
1???年~1495年

概要

 ジャナンドレア・ボッチャッツィは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者、フェッラーラ公国ローマ駐在大使。

在位

 モデナ司教 1479年11月15日~1495年
  次代:ジョヴァンニ・バッティスタ・フェッラーリ

年表

1492年8月31日

フェッラーラエルコーレ1世・デステに手紙を書く。「我らが果敢な教皇アレクサンデル6世は常にそうであったとおりの姿をすでに示しています」。

1492年11月

エルコーレ1世・デステに手紙を書く。アレクサンデル6世の閨閥主義について、「10の教皇位も親族の群れを満足させることはできないでしょう」

1492年11月2日

エルコーレ1世・デステに手紙を書く。ジョヴァンニ・スフォルツァローマ到着について、アレクサンデル6世「の在位する限り、権力を持てるでしょう」

1492年11月5日

エルコーレ1世・デステに手紙を書く。「ジョヴァンニ・スフォルツァの結婚は大きな醜聞になっております。1番目の花婿ガスパール・デ・プロシタはまだここローマにいて、激しい抗議し、カタロニア人として全キリスト教国の君主と権力者に訴えると言っています。しかし屈服せざるを得ないでしょう」

1492年11月9日

エルコーレ1世・デステに手紙を書く。「天は苦難をもってジョヴァンニ・スフォルツァの結婚をもたらしました。ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナは、ジョヴァンニ・ポンターノの甥ヤコポがアレクサンデル6世に一昨日話したところを見ると、お怒りのようです。まだこの問題は決定されておりません。どちらもいい言葉をもらっており、どちらもここローマにおります。しかしながら、ジョヴァンニ・スフォルツァが勝利を収めると信じられております。特にアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿が、その行動と言葉に力を持ち、利益を求めているのですから」

1493年2月25日

エルコーレ1世・デステに手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアの結婚について、スペインのプラダ伯との話がある。私生児であるチェーザレ・ボルジアを嫡出とすることについて、「私生児という汚点を拭うために、母親の夫が生きていた間にその家で生まれたのだと言います。それは確かでしょう。その夫というのは時には街にいて、他の時には教会の領域と利益の中をうろついていたのですから」

1493年3月11日

エルコーレ1世・デステに手紙を書く。イッポーリト・デステを枢機卿に叙任してもらうべく、アレクサンデル6世の側近アドリアーナ・デル・ミラと執事フアン・マラデスに働きかける。教皇は息子のヴァレンシア大司教チェーザレ・ボルジアを枢機卿にすることを望んでおり、エステルゴム教区長であるイッポーリト・デステと好一対になるでしょう。「彼らは同じ年頃です。チェーザレ・ボルジアは16歳以上ではないはずですし、イッポーリト・デステはそれに近い年齢ですから」と説得しようとしたところ、フアン・マラデスは、イッポーリト・デステは14歳に満たないし、チェーザレ・ボルジアは18歳です、と答えている。

1493年3月18日

チェーザレ・ボルジアの住居、おそらくペニテンツィエリ宮殿を訪問(1493年3月17日)。

1493年3月19日

エルコーレ1世・デステに手紙を書く。「昨日(一昨日)トラステヴェレ地区(おそらくボルゴの間違い)の家でチェーザレ・ボルジアに会いました。ちょうど狩りに行くところで、世俗的な恰好、絹を着て武装していました。ただの司祭であるかのように、剃髪しているだけです。一緒に馬で行く間、親しく話をしました。才能があり魅力的な人柄で、立派な王子のように振る舞い、活発、陽気で社交的でした。謙虚な彼は、兄弟のガンディア公フアン・ボルジアも才能に恵まれていますが、彼よりも遥かに優れ傑出した存在です。大司教は全く司教職への意向がありません。年1万6千ドゥカートもの聖職禄があるのですが。(ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナの庶出の娘との)結婚話がもし実現するのであれば、聖職禄は兄弟の13歳のホフレ・ボルジアのものになるでしょう」

1493年4月4日

エルコーレ1世・デステに手紙を書く。アレクサンデル6世は、ルクレツィア・ボルジアの環境を整えるのに喜びを覚え、彼女の幸せを自分の幸せと感じ、彼女を情熱的にこの上もなく愛している。

1493年5月6日

エルコーレ1世・デステに手紙を書く。アドリアーナ・デル・ミラのこと。

1493年6月13日

ローマにてエルコーレ1世・デステに手紙を書く。

 昨日、今月の12日、結婚式はとても豪華で贅沢に宮殿で公式に祝われました。ローマの全ての夫人たちが招待され、最も影響力のある市民たちと枢機卿たち計12名がルクレツィア・ボルジアのそばに立ち、中央に教皇アレクサンデル6世が玉座に坐していました。宮殿と居住域全体は人々で満たされており、彼らは驚きに圧倒されておりました。ペーザロの君主ジョヴァンニ・スフォルツァは、婚約者を妻とし、コンコルディア司教レオネッロ・キエリカートが説教を行いました。大使の方は、しかし、ヴェネツィア共和国とミラノ公国と私と、それにフランス王の大使だけでした。
 アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿は、儀式の間に私が贈呈品を差し出さなければならないものと思っていましたので、人をやって教皇に尋ねてもらったところ、それは適切ではないと考えておられるようで、少し待つのが良いように見えました。皆が同意していたところ、教皇が声をかけてくださり、「君の言うことが一番良いように思う」と。結果的に、夜遅くに私が宮殿に持ってくるように計らわれました。教皇は花嫁と花婿を祝って、小さな晩餐会を催されました。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ、コロンナ、花嫁と花婿、彼の隣にピティリアーノ伯で教会軍総司令官ニッコロ2世・オルシーニ、いろいろと話の絶えないジューリア・ファルネーゼテオドリーナ・チーボと娘のジェラーチ侯夫人バッティスティーナ・ウソディマーレジューリア・ファルネーゼの兄アンジェロ・ファルネーゼの妻であるアンジェラ・オルシーニがいました。そして、ジョヴァンニ・コロンナ枢機卿の弟とアドリアーナ・デル・ミラが来ました。彼女は上記のジューリア・ファルネーゼの義理の母親で、教皇の姪として扱われていた花嫁を自身の家で教育を施しました。閣下も承知の、教皇の従兄弟故ペレ・デル・ミラの娘です。
 机が片づけられた時、深夜3時から4時のことでしたが、高名なミラノ公から贈り物が届けられ、それは5つの異なる金襴とダイヤモンドとルビーの指輪で、全部で1千ドゥカート相当のものです。私はそれに続いて、閣下の奉仕の提供と共に、結婚の祝いと未来への希望の言葉を添えて贈り物(器の付いた銀の取っ手の水盤)を渡しました。贈り物を教皇はとても喜んでいました。花嫁と花婿の謝意と共に、ご自身の限りない感謝を述べられていました。そして、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァが、1千ドゥカート相当の金のついた銀の飲用食器一式を差し出しました。モンレアーレ大司教フアン・デ・ボルハが3千ドゥカート相当のとても美しいサファイアとダイヤモンドの指輪、教皇庁書記官ジュリアーノ・チェザリーニが8百ドゥカート相当のボウルとカップ、フアン・ボルジアが80ドゥカート相当の器、教皇庁書記官ベルナルディーノ・ルナーティが70から80ドゥカート相当の、銀で飾られ金箔を施された、碧玉のようなしっかりした材質の花瓶を贈りました。皆その時に贈呈しましたが、他の枢機卿や外交官たちなどは、披露宴の時に祝い品を持ってくることになっていますし、私も必要なことはするつもりです。次の日曜日に行われると思うのですが、確かではありません。
 要するに、婦人たちは踊りつづけ、その合間に素晴らしい喜劇が歌と音楽と共に上演されました。もちろん教皇以下全員が出席していました。これ以上申し上げることもございますまい。全てを記せばこの報告書は終わることがないでしょう。とにかく、このようにして一夜を過ごしたのです。その是非は殿下のご判断に委ねます。

1495年3月24日

エルコーレ1世・デステに手紙を書く。アレクサンデル6世について。「豊富な料理が載ってはいますが、たった1つだけの皿を食べます。ついには彼と食事を共にすることにうんざりしてしまいます。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァと他の人々、特にフアン・デ・ボルハは、以前聖下と食事を共にされましたが、チェーザレ・ボルジアでさえ、この交際を止めてしまいます。極度の倹約に辟易するので、いつでも何をしてでも避けています」

別表記

 ジャン・アンドレア、ジャンドレア・ボッカチオ、ジャンナンドレア・ボッカッチョ、ジョヴァンニ・ボッカチオ、Gian AndreaBoccaccioGiovanni Andrea Boccaccio

外部リンク

 GCatholic.org
 Google Books
 The Hierarchy of the Catholic Church

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2006年10月27日以前