——Antonfrancesco degli Albizzi——
アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィ
生没年:1486年10月11日~1537年8月20日
没地:フィレンツェ
父:ルカ・ダントーニオ・デリ・アルビッツィ
母:コンスタンツァ・パンドルフィーニ
妻:マッダレーナ・リドルフィ
子:ルカ・デリ・アルビッツィ
  ロレンツォ・デリ・アルビッツィ
  コンスタンツァ・デリ・アルビッツィ
  ジョヴァンニ・バッティスタ・デリ・アルビッツィ
  マリーア・デリ・アルビッツィ
  コルネリア・デリ・アルビッツィ
記載日:2005年5月29日以前

年表
 1508年 マッダレーナ・リドルフィと結婚。

 1512年8月31日 パオロ・ヴェットーリバルトロメオ・ヴァローリらメディチ派の有力者と共に、少数の兵を率いて政庁宮に入り、ピエロ・ソデリーニを脅迫して辞任を強制。夜ピエロ・ソデリーニは、シエナへ逃亡。後ラグーサへ逃れる。

 1513年 八人委員会を務める。

 1529年7月16日 バルセロナ協定締結の報と、カール5世がすぐイタリアに向かって旅立つとの報が届き、フィレンツェ市内に驚愕の波が走る。
 1529年7月18日 カール5世がイタリアに向かって航海中との報が届く。
 1529年7月19日 カール5世と戦うことは無防備のフィレンツェにとっては自殺行為に等しいと特別諮問会議で力説するが、フランソワ1世の意図に関するより正確な情報を待つとの意見が多数を占める。
 1529年7月28日 十人委員会、予想されるフィリベルト・デ・シャロン指揮のカール5世軍の襲撃に備えて急遽、軍の補充・整備など防衛態勢をとり始める。
 1529年8月 フランソワ1世の再三の公約を信じてきたフィレンツェは、それに反するカンブレーの和によりイタリア内外で孤立。

 1537年8月1日 アレッサンドロ・ヴィテッリ指揮のスペイン軍に、モンテムルロを急襲され、壊滅。フィリッポ・ストロッツィバッチオ・ヴァローリ両父子、Ludovico Rucellaiらと共に捕虜にされる。
           正午、亡命者たちの軍壊滅の報、市内に届く。
           夜、捕虜、市内に連行され、コジモ1世・デ・メディチの前に引き出される。
 1537年8月20日 バッチオ・ヴァローリ父子らと共に処刑される。

肖像
 アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィの肖像

別表記
 アントーニオ・フランチェスコ、AntonioAnton Francesco

外部リンク
 Google Books
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献
 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アルビッツィ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで