Malatesta Baglioni

マラテスタ・バリオーニ

生没:1491年~1531年12月24日
父:ジャンパオロ・バリオーニ
妻:モナルデスカ・モナルデスキ
子:リドルフォ・バリオーニ

概要

 マラテスタ・バリオーニはイタリアの傭兵隊長。

年表

1521年12月上旬~下旬
レオ10世の死の報に彼に押さえられていた者たちの反抗始まる:アルフォンソ1世・デステは奪われた諸領地を回復し、ロートレック子爵オデ・ド・フォワは教皇総督フランチェスコ・グィッチャルディーニ配下のパルマを攻撃して撃退され、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは1521年12月23日ウルビーノを奪回し、ペーザロ、カメリーノを制圧した上、レオ10世に追放されていた故ジャンパオロ・バリオーニの子マラテスタ・バリオーニ(1491年~1531年)、オラーツィオ・バリオーニ(1493年頃~1528年)と共にフィレンツェ軍の守備するペルージアに迫る。
1522年1月4日~1522年1月5日
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレと共にペルージアに迫っていたマラテスタ・バリオーニ、、オラーツィオ・バリオーニ兄弟は、ペルージアに復帰し支配。ジェンティーレ・バリオーニは逃亡。
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは引き続きシエナに進軍し、その政体変更を迫るが、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍に撃退される。フィレンツェ軍はジェンティーレ・バリオーニを伴ってペルージア奪回に向かう。
1529年4月15日
十人委員会は、クレメンス7世メディチ家と敵対してきたマラテスタ・バリオーニを来る6月1日から1年間、フィレンツェ軍の総指揮官として雇うことを決め、コンシーリオ・デリ・オッタンタもこれを承認。
この頃?、同じくクレメンス7世の宿敵ナポリオーネ・オルシーニを軍指揮官として雇うことも同様に決める。
1529年9月9日
ペルージアを支配していた(1522年~)マラテスタ・バリオーニは、フィリベルト・デ・シャロンに降伏の意を伝える。
1529年9月11~12日
マラテスタ・バリオーニ、自軍と共に安全に退出することを保障され、フィレンツェとの傭兵契約の継続を許されてペルージアを去る。フィレンツェ軍もペルージアを撤退。
これによりフィリベルト・デ・シャロン指揮のカール5世軍の攻撃目標はいよいよフィレンツェ領に絞られる。
1530年1月3~7日
フィレンツェは、前年末マラテスタ・バリオーニから勧奨されたクレメンス7世への使節派遣問題が、特別諮問会議では意見が分かれたためシニョーリアによってコンシーリオ・マッジョーレの審議に付され、承認される。特別諮問会議もこれを承認し、さらに使節にクレメンス7世との交渉権も与える。
1530年1月中旬/下旬
前年12月、軍最高司令官就任を契約しながら父アルフォンソ1世・デステカール5世への接近、同盟策によってその契約の実行を阻まれ、ついに着任しないエルコーレ2世・デステに代えて、フィレンツェはマラテスタ・バリオーニを本人の強い意向に従い軍最高司令官に就任させる。
1530年6月21日
フィレンツェの十人委員会の委員Iacopo GherardiAndrea Tebaldiらが参画しているクレメンス7世毒殺の陰謀を聞き知ったマラテスタ・バリオーニカール5世軍陣営に通報。
ペルージアを追われてフィレンツェ軍指揮官に留まった後もフィリベルト・デ・シャロン及びクレメンス7世に使者を送って接触を持ち続けると共に、この年4月からはフランソワ1世の宮廷にも使者を送って彼にはその言葉に反してフィレンツェ支援の意図がないことを感得していたマラテスタ・バリオーニは、自身のペルージア復辟の意図を実現するにはカール5世クレメンス7世側につくのが有利と判断していたが、この陰謀の通報により、フィリベルト・デ・シャロン及びクレメンス7世の信頼を得始める。
1530年7月半ば~下旬
フィリベルト・デ・シャロン、マラテスタ・バリオーニの勧奨に従ってフィレンツェに使者を送り、メディチ家復辟を条件とする和議を提案するがフィレンツェは依然この条件を拒否。両者の裏面での接触、最終的に途絶。
1530年
この頃すでにマラテスタ・バリオーニ、作戦会議に出席せず、ヴェッキオ宮殿などには護衛兵を伴って現れる。
1530年7月末
この頃ローマで、クレメンス7世の代理、フィリベルト・デ・シャロンの使者及びマラテスタ・バリオーニの使者により、マラテスタ・バリオーニカール5世クレメンス7世陣営への寝返りの密議が纏まる。
1530年7月31日~8月1日
全市民が武装して包囲軍の市内突入に備えると共に市民代表がマラテスタ・バリオーニに断乎として戦うよう督励。これに対してマラテスタ・バリオーニ、指揮官の1人Stefano Colonna(1490年代~1548年)と共に、包囲軍の威力を力説した上、先頭はフィレンツェの滅亡に繋がるとしてこれを拒絶し、和議を勧奨。
1530年8月2日
フィレンツェを裏切る。
1530年8月6日
マラテスタ・バリオーニ、フィリベルト・デ・シャロンの後を継いだフィレンツェ包囲カール5世軍指揮官・(フェデリーコ2世・ゴンザーガの弟)フェッランテ・ゴンザーガ(1507年~1557年:グアスタッラ伯在位:1539年~1557年)に使者を送ってフィレンツェとの和議の条件、フィレンツェの自由の保障、メディチ家の完全復辟を聞き出し、フィレンツェのシニョーリアに伝えると共にその受容、和議を勧奨。シニョーリアはこれを拒絶し、逆にマラテスタ・バリオーニに包囲軍の全面的攻撃を命令。マラテスタ・バリオーニはこれを拒否。
1530年8月6~8日
特別諮問会議は、マラテスタ・バリオーニの解雇を決め、本人に通告。これに激怒したマラテスタ・バリオーニ、フィレンツェとの戦闘を宣言。マラテスタ・バリオーニ指揮の軍と市民軍は、アルノ河を挟んで対峙。Zanobi Bartolini(1485年~1533年)が仲介者となって両軍の戦闘を回避させる。協議によりフィレンツェはマラテスタ・バリオーニの勧奨する和議の条件を受容し、彼はこれまで通り軍最高司令官に留まる。これによりフィレンツェは事実上彼に屈し、市内は彼の配下の傭兵に押さえられる。
1530年8月12日
フィレンツェ共和政の消滅:カール5世の陣営で、フィレンツェの政体は4ヶ月以内にカール5世が決めること、フィレンツェはカール5世軍にその兵を満足させるに足る軍資金を支払うこと、フィレンツェの領土を保全し外国軍隊はそこから撤退すること、マラテスタ・バリオーニとステファノ・コロンナはカール5世に代わって市内を警護すること、これまでのフィレンツェの反メディチ、クレメンス7世の罪は問われず、指導者及び市民は処罰されないことなどを内容とする和平(降伏)協定が調印される。これによりフィレンツェ共和政、実質上、歴史から消える。
1530年8月20日
パルラメントが招集される。マラテスタ・バリオーニ配下の傭兵がシニョーリア広場に通ずる街路を固める中、メディチ派及びその支持者が集合し、共和政派を排斥した上、バーリアの設置を決め、その委員12名を全てメディチ派から選出。
バーリアは、直ちに会合し、シニョーリアを配下に置くと共にディエチ及びオットーを廃止。
1531年12月24日
マラテスタ・バリオーニ死(1491年~)。
1532年5月27日
クレメンス7世、故マラテスタ・バリオーニの子リドルフォ・バリオーニ(1518年~1554年)と甥ジャンパオロ・バリオーニをペルージアから追放した上、叛徒と宣告し、その封土、城塞を全て没収して教会領とする。

別表記

 マラテスタ・バリオーネ

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家の人びと』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lost Girls

記載日

 2006年10月27日以前