Francesco Guicciardini

フランチェスコ・グィッチャルディーニ

生没:1483年3月6日~1540年5月22日
父:ピエロ・ディ・ヤコポ・ディ・ピエロ・グィッチャルディーニ
母:シモーナ・ジャンフィリアッツィ
妻:マリーア・ディ・アラマンノ・サルヴィアーティ
子:シモーナ・グィッチャルディーニ
  ルクレツィア・グィッチャルディーニ
  ラウドミア・グィッチャルディーニ
  エリザベッタ・グィッチャルディーニ

概要

 フランチェスコ・グィッチャルディーニは、15世紀~16世紀のフィレンツェの男性、歴史家、政治家。ニッコロ・マキアヴェッリの評価者で好ライヴァル。

著作

 『フィレンツェ史』
 『イタリア史』

年表

1483年3月6日
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、フィレンツェに生(1483年~1540年)。
1509年6月8日
この日以前にフランチェスコ・グィッチャルディーニ、『フィレンツェ史』を書き終える(1508年春~)。
1511年1月初旬
フェルナンド2世・デ・アラゴンフィレンツェの政治的態度を説明してその支持を得るべく、彼のもとにフランチェスコ・グィッチャルディーニを派遣するが失敗に終わり、かつルイ12世の反感を誘うに至る。
1516年4月5日
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、レオ10世よりモデナの教皇総督に任命される。
1516年
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、Discorso del modo di assicurare lo stato ai Medici(メディチ家政権の確保方法に関する論考)を書き、ロレンツォ・デ・メディチの絶対君主化を批判。
1517年6月30日
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、レオ10世よりレッジョの教皇総督にも任命される(1517年~1523年)。
1521年6月23~24日
ミラノのフランソワ1世軍の一部が、教会領に侵攻し、レッジョを攻撃。しかし教皇総督フランチェスコ・グィッチャルディーニの周到な警戒の前に攻略できずに終わる。
1521年8月1日
第二次イタリア戦争:レオ10世は、マントヴァ候フェデリーコ2世・ゴンザーガ指揮の自軍とペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス(1490年~)指揮のカール5世をボローニャに集めて同盟軍を結成し、その総指揮官にプロスペロ・コロンナを、前線総監にフランチェスコ・グィッチャルディーニを当て、間もなくジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍も加え、フランソワ1世のミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワに宣戦布告。フランソワ1世カール5世のヨーロッパ覇権を巡る対立、イタリアでも公然たる戦争に発展し、第二次イタリア戦争始まる(~1559年)。
1521年11月29日
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、レオ10世よりパルマの教会総督に任命される(~1522年)。
1521年12月上旬~下旬
レオ10世の死の報に彼に押さえられていた者たちの反抗始まる:アルフォンソ1世・デステは奪われた諸領地を回復し、ロートレック子爵オデ・ド・フォワは教皇総督フランチェスコ・グィッチャルディーニ配下のパルマを攻撃して撃退され、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは1521年12月23日ウルビーノを奪回し、ペーザロ、カメリーノを制圧した上、レオ10世に追放されていた故ジャンパオロ・バリオーニの子マラテスタ・バリオーニ(1491年~1531年)、オラーツィオ・バリオーニ(1493年頃~1528年)と共にフィレンツェ軍の守備するペルージアに迫る。
1521年
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、Dialogo del reggimento di Firenze(フィレンツェ統治論)の執筆を開始。
1524年4月6日
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、クレメンス7世によりロマーニャ総督に任命される。
1525年
この年初め頃、フランチェスコ・グィッチャルディーニ、Dialogo del reggimento di Firenze(フィレンツェ統治論)を書き終える(1521年~)。
1526年10月7日
クレメンス7世、9月21日の協定に従い、自分のコニャック同盟軍内全権代理・前線総監フランチェスコ・グィッチャルディーニに命じて自軍を同盟軍から離し、ポー河以南に撤退させる。しかし、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレと共になるべく多くの兵を密かに残せとも命ずる。
1526年12月上旬
この頃?、クレメンス7世カール5世に与するアルフォンソ1世・デステを自陣に引き入れるためやむなく、彼をコニャック同盟軍の総指揮官とすること、彼の子息エルコーレ2世・デステカトリーヌ・ド・メディシス(1519年~1589年)を与えること、彼にモデナを返還することなどの和解条項をフランチェスコ・グィッチャルディーニを介して提示するが受容されずに終わる。
1527年4月26日
「金曜日の騒乱」
午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手でフランチェスコ・グィッチャルディーニの兄ルイジ・グィッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。
コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。
正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。
午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。
ニッコロ・カッポーニピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。
夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グィッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。
フランチェスコ・グィッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。
シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。
1529年9月下旬~末
1529年9月21日ミケランジェロ、1529年9月24日フランチェスコ・グィッチャルディーニが市内から逃亡したのを初め、アレッサンドロ・デ・パッツィロベルト・アッチャイウオリトンマーゾ・ディ・パオラントーニオ・ソデリーニヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティ、ルイジ・リドルフィ、バッチオ・カッポーニ、アゴスティーノ・デル・ネッロなどメディチ派と目された要人多数、状況の緊迫化と共にパニック状態に陥りつつある市内から、身の危険を覚えて逃亡。
逃亡者は直ちに帰国しなければ追放に処すとの帰国命令が出されるが大部分の者が従わず。ミケランジェロは1529年11月21日ようやく帰る。
1529年9月
この頃、メディチ派を公的に監視する動きさらに強まり、フランチェスコ・グィッチャルディーニ、オッタヴィアーノ・デ・メディチ、P. della Stufa、フィリッポ・デ・ネルリら要人25名、公式にメディチ派と宣告される。内P. della Stufa、フィリッポ・デ・ネルリら逮捕可能な18名は逮捕されヴェッキオ宮殿に拘禁される。
1530年3月
この頃までにフランチェスコ・グィッチャルディーニ、『マキャヴェリの『ディスコルスィ』をめぐる考察』を執筆。(但し未完)。
1530年6月9日
1529年12月Ottoからボローニャにおけるクレメンス7世の側近としての言動などを説明するよう召喚されながら書面で弁明し、1530年3月諸島に叛徒と宣告されていたフランチェスコ・グィッチャルディーニが改めて叛徒として全財産の没収を宣告されたのを初めフランチェスコ・ヴェットーリIacopo Tornabuoni(1472年~1543年)も同じ宣告を受ける。
1530年8月~10月31日
メディチ派が制した新体制の中で、クレメンス7世の全権代理バッチオ・ヴァローリが事実上、支配権を握り、彼をロベルト・アッチャイウオリフランチェスコ・ヴェットーリ、フランチェスコ・グィッチャルディーニらが補佐。以後、彼らによりフィレンツェ市民軍九人委員会の廃止、全市民の武装解除、共和政下最後の正義の旗手ラッファエーレ・ジローラミ、その前の正義の旗手で熱烈な共和政派のフランチェスコ・カルドゥッチら48名の共和政派の逮捕、拷問、内フランチェスコ・カルドゥッチ(1465年~)ら6名の処刑などが次々に断行される。共和政の指導者及びその下での反メディチ行為については不問とするとの和平(降伏)協定は早くも踏みにじられる。
1532年4月4日
バーリア、クレメンス7世の命に従い、12名(フランチェスコ・グィッチャルディーニ、フランチェスコ・ヴェットーリロベルト・アッチャイウオリ、マッテオ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリMatteo NiccoliniRobert Pucciパッラ・ルチェッライヤコポ・ジャンフィリアッツィ(1470年~1549年)、Agostino Diniジョヴァンニ・リドルフィGiuliano Capponi)のRiformatori(改革者)を選出し、政体変改の権限を与える。この12名と現正義の旗手Gianfrancesco de' Nobili、新政体について協議を開始。
1534年6月27日
アレッサンドロ・デ・メディチルイジ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・グィッチャルディーニ兄弟にクレメンス7世亡き後のフィレンツェ支配体制の保全策を諮問。
1534年6月29日
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、アレッサンドロ・デ・メディチに、敵対派の動きは激化してもその支配権は揺らぐまいと楽観的予測を伝えると共に、カール5世による支持・保護を力説し公知させることが肝心だと勧告。
1534年
アレッサンドロ・デ・メディチクレメンス7世死後の支配体制を固めるためルイジ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・グィッチャルディーニ兄弟、ロベルト・アッチャイウオリフランチェスコ・ヴェットーリを側近としてフィレンツェに集める。
1536年1月3日
アレッサンドロ・デ・メディチ、騎兵3百と共にフランチェスコ・グィッチャルディーニ、フランチェスコ・ヴェットーリ、マッテオ・ストロッツィ、Robert Pucciら腹心を従えてナポリに入り、カール5世の歓迎を受ける。
以後アレッサンドロ・デ・メディチカール5世とその幕閣に多大の金品を供与して歓心を買いながら、パルラメントの召集・バーリアの設置はフィレンツェの伝統に従っていること、一部貴族の処断はフィレンツェ防衛上当然必要な措置であること、などを彼らに力説し、自分の施政に関する亡命者たちのカール5世への訴えの不当性を強調。
1537年1月8日
午前、四十八人評議会召集、開催され、ジューリオ・デ・メディチDucaとして摂政を置くとのインノチェンツォ・チーボの案を否決。フランチェスコ・グィッチャルディーニらメディチ派貴族、後継統治者としてコジモ1世・デ・メディチを擁立する工作を進め、市民への宣伝活動も始める。
インノチェンツォ・チーボの待つアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の守備隊が市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。
午後、フランチェスコ・グィッチャルディーニらに呼ばれたコジモ1世・デ・メディチは、山荘での狩り、釣り三昧の生活を打ち切って市内に入り、市民の歓迎を受けながらアレッサンドロ・デ・メディチ邸を弔問。
夜、インノチェンツォ・チーボは、コジモ1世・デ・メディチと会見してアレッサンドロ・デ・メディチの遺児たちの厚遇、カール5世の権益及びその代弁者としての自身の権威の尊重などの約束を取り付けた上、フランチェスコ・グィッチャルディーニと会見してコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。アレッサンドロ・ヴィテッリもフランチェスコ・グィッチャルディーニに同じくコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。
深夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャからヴェネツィアに着き、フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに事態を説明。フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィはこの地駐在フランソワ1世代理と会見し、ボローニャへの出立の準備を始める。
1537年1月9日
早朝、四十八人評議会召集、開催され、フランチェスコ・グィッチャルディーニらの主導によりコジモ1世・デ・メディチを、Ducaとしてではなく、カール5世によってアレッサンドロ・デ・メディチに承認された(1531年)Capo della Repubblica Fiorentinaの正統後継者として承認。同時にそのConsigliereとしてフランチェスコ・グィッチャルディーニ、フランチェスコ・ヴェットーリ、マッテオ・ストロッツィ、ロベルト・アッチャイウオリMatteo Niccoliniヤコポ・ジャンフィリアッツィGiuliano CapponiRaffaello de' Mediciの8名を指名。
1537年5月初旬
カール5世の全権代理・シフエンテス伯Jun de Silva、政変に関わる事情調査のため市内に入る。以後、コジモ1世・デ・メディチにはマルゲリータ・ディ・パルマとの結婚の可能性を示唆してその意を引きながら、四十八人評議会を召集・開催させ、政変とその後の政体について説明させると共に亡命者たちの政体変更に関する見解も収集。
この過程でコジモ1世・デ・メディチ、内心で強めてきた独裁君主Ducaへの志向をカール5世の支持の下で実現すべく、君主独裁の抑制・フィレンツェの独立を志向するフランチェスコ・グィッチャルディーニら有力貴族を排斥し、単独で、カール5世への領内城塞の譲渡などをJun de Silvaに約束。
1537年
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、山荘でイタリア史の執筆に着手(~1540年)。(1~16篇は1561年フィレンツェで、17~20篇は1564年ヴェネツィアで刊)。
1540年5月22日
ニッコロ・マキアヴェッリの評価者・最大の議論仲間でもあったフランチェスコ・グィッチャルディーニ、失意の内に郊外アルチェトリで死(1483年~)。

別表記

 グウィッチアルディーニ、グイッチアルディーニ

外部リンク

 Treccani
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 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『銀色のフィレンツェ』
 『君主論』
 『サイレント・マイノリティ』
 『世界大百科事典』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『マキアヴェリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネッサンス夜話』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前