Tommaso Soderini

トンマーゾ・ディ・パオラントーニオ・ソデリーニ

生没:1470年10月13日~1531年
父:パオラントーニオ・ソデリーニ
母:エリザベッタ・スピネッリ
妻:フィアンメッタ・ストロッツィ
  フランチェスカ・パンドルフィーニ
子:ヤコポ・ソデリーニ
  マリーア・ソデリーニ
  エリザベッタ・ソデリーニ
  フランチェスコ・ソデリーニ
  パオラントーニオ・ソデリーニ
  ジャンフランチェスコ・ソデリーニ
  アレッサンドロ・ソデリーニ
  アルジェンティーナ・ソデリーニ
  カテリーナ・ソデリーニ
  マリエッタ・ソデリーニ
  フィアンメッタ・ソデリーニ
  コンスタンツァ・ソデリーニ
  マッダレーナ・ソデリーニ
  ナンニーナ・ソデリーニ

概要

 トンマーゾ・ソデリーニは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1470年10月13日
誕生。
1494年
フィアンメッタ・ストロッツィと結婚。
1501年
フェッラーラへの使節。
1502年
ローマへの使節。
1515年
ヤコポ・パンドルフィーニの娘フランチェスカ・パンドルフィーニと結婚。
1518年
学士としてピサの大学にて市民の前で代読する。
1527年
学士としてピサの大学にて市民の前で代読する。
1528年
トルトーナのカピターノ。
1529年6月26日
コンシーリオ・マッジョーレ、キリストをフィレンツェの王とするとの1528年2月の議決を再確認し正式に宣言。
1529年6月30日
この頃、親カール5世派では親フランス政策の変更を要求する議論が公然となされ、親フランス派・反ニッコロ・カッポーニ派のトンマーゾ・ディ・パオラントーニオ・ソデリーニも特別諮問会議でカール5世への使節派遣を主張。
1529年7月
フランソワ1世宮廷駐在副大使Bartolomeo Cavalcanti(1503年~)、カンブレーに行き両貴婦人の交渉を見守る。
1529年7月12日
フィレンツェに、カンブレーにおけるカール5世フランソワ1世両陣営の和平交渉の報が届き、脅威の念をもって受け取られる。トンマーゾ・ディ・パオラントーニオ・ソデリーニは再び特別諮問会議でカール5世のもとに使節を派遣するよう主張するが、フランソワ1世を信じるとの多数意見にまた退けられる。
1529年7月16日
バルセロナ協定締結の報と、カール5世がすぐイタリアに向かって旅立つとの報が届き、市内に驚愕の波、走る。
特別諮問会議及びコンシーリオ・デリ・オッタンタ、急ぎ招集され対応を協議。特別諮問会議は神の加護を待つことを決める。
1529年7月18日
カール5世がイタリアに向かって航海中?との報が届く。
1529年8月17日
特別諮問会議は、ジェノヴァのカール5世のもとに使節団、前正義の旗手で親カール5世派のニッコロ・カッポーニ、親フランソワ1世派のトンマーゾ・ディ・パオラントーニオ・ソデリーニラッファエーレ・ジローラミ、マッテオ・ストロッツィを送ることを決める。
1529年9月
カール5世軍接近の報が広まり、フィレンツェ市内にパニックの様相が生じつつある中、Ottoは、10名以上の者による集会は宗教上のものを除いて特別の許可がない限り開くことを禁ずると布告。メディチ家との内通、メディチ家復辟の策謀などについて疑心暗鬼が生じ、それらを摘発しようとする動き強まる。
1529年9月下旬~末
1529年9月21日ミケランジェロ、1529年9月24日フランチェスコ・グィッチャルディーニが市内から逃亡したのを初め、アレッサンドロ・デ・パッツィロベルト・アッチャイウオリトンマーゾ・ディ・パオラントーニオ・ソデリーニヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティ、ルイジ・リドルフィ、バッチオ・カッポーニ、アゴスティーノ・デル・ネッロなどメディチ派と目された要人多数、状況の緊迫化と共にパニック状態に陥りつつある市内から、身の危険を覚えて逃亡。
逃亡者は直ちに帰国しなければ追放に処すとの帰国命令が出されるが大部分の者が従わず。ミケランジェロは1529年11月21日ようやく帰る。
1529年
市内と領外及び領内各地との通信・交通が困難になり、市内の食糧、とりわけ魚・卵類が欠乏する。
1529年
ジェノヴァへの使節。
1530年1月初旬
フィレンツェは、財政の危機を救う一策として教会財産の3分の1の徴集を決め、それに関する全権委員会を設置するが、実行を挙げ得ずに終わる。
1531年
ローマのサンタンジェロ城の牢獄にておそらく毒殺。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前