Maximilian II

マクシミリアン2世

生没:1527年~1576年
在位:ハンガリー王マクシミリアン1世 1563年~1576年
   神聖ローマ皇帝 1564年~1576年
    先代:フェルディナンド1世
    次代:ルドルフ2世
父:フェルディナンド1世
母:アンナ・ヤギェウォ
妻:マリア・デ・アブスブルゴ
子:アナ・デ・アウストリア
  ルドルフ2世
  マチアス
  エルンスト

概要

 マクシミリアン2世は、16世紀の男性、神聖ローマ帝国皇帝。

年表

1548年9月
帝国の相続問題を懸念するカール5世、長女マリア・デ・アブスブルゴと弟フェルディナンドの長子マクシミリアン2世(1527年~1576年:ハンガリー王Maximilian I在位1563年~1576年:神聖ローマ皇帝在位1564年~1576年)の結婚式を、自身も列席してマドリードで盛大に挙げさせる。
1551年3月9日
カール5世フェルディナンド、両名の妹でネーデルラント総督・前ハンガリー・ボヘミア王妃マリア・フォン・ハプスブルク及びフェリペ2世の4者、アウグスブルクで長い協議を続けた末、神聖ローマ皇帝位をハプスブルク家のドイツ、スペイン両系統が交互に継承すること、すなわちカール5世の後を弟フェルディナンドが継いで帝位に就き、フェルディナンドの後をカール5世の子フェリペ2世が継いでローマ人の王となり、その後をフェルディナンドの子マクシミリアン2世が継ぐことを、マリア・フォン・ハプスブルクの懸命な仲介によってようやく取り決める。
1562年9月20日
フェルディナンド1世の長子マクシミリアン2世、ボヘミア王に即位(在位~1576年)。
1562年11月24日
マクシミリアン2世、ローマ人の王に選出される。
1563年9月8日
ボヘミア王マクシミリアン2世、ハンガリー王に即位(在位~1576年)。
1564年7月25日
フェルディナンド1世死(1503年~:在位1558年~)——ボヘミア王・ローマ人の王・ハンガリー王マクシミリアン2世、神聖ローマ帝国皇帝に即位しマクシミリアン2世を名乗る(在位~1576年)。
1565年12月16日
1564年から通常の政務を担当するフランチェスコ1世・デ・メディチ、故フェルディナンド1世の娘で現神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の妹ジョヴァンナ・ダズブルゴ(1547年~1578年)と結婚。自身の大公位を皇帝の側に承認させようとの底意を秘めてこの結婚を求めたコジモ1世・デ・メディチ、生涯最大とも言うべき婚儀を挙行させる。
この年、これ以前にコジモ1世・デ・メディチ、自邸(旧ピッティ宮殿)からヴェッキオ橋、ウフィッツィ宮殿を経て政庁宮(ヴェッキオ宮殿)に至る高架の通廊をジョルジョ・ヴァザーリに命じて作らせ、一族が身辺警護の必要なく安全に公・私両邸を往来できるようにする。
1566年9月6日
1565年から自分への貢税支払を拒否しトランシルヴァニアの奪回・領有を狙う神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世を懲罰すべくハンガリー攻略を目指して通算10回目のヨーロッパ遠征中のスレイマン1世、途上のハンガリー南部シゲトヴァール城塞包囲(1566年8月~)の陣中で急病死(1494/1495年~:在位1520年~)。
しかしその死は秘密とされ、軍は2日後、文字通り死を賭して戦うZrínyi Miklós(1508年頃~1566年)指揮の守備隊を玉砕させ、廃墟と化した城塞をようやく占拠。
——Selim II(1524年~)、スルタンとなる(在位~1574年)。しかし非力なSelim IIに代わってSokollu Mehmet Paşa(1505年~1579年)が大宰相として執政にあたり(~1578年)、故スレイマン1世の偉業を守る。
1569年8月27日
ピウス5世Santo Stefano騎士団の創設(1562年)、Pietro Carnesecchiの身柄引き渡し(1566年)、フランス・カトリック陣営への支援、など教皇・教会への協力姿勢の顕著なコジモ1世・デ・メディチを「カトリック信仰擁護の貢献者」などと評価し、この多大な貢献にGran Duca di Toscana(トスカーナ大公)の位をもって報いるとの勅書を発する。
この勅書に、フィレンツェシエナも神聖ローマ帝国の封土と考えるマクシミリアン2世及びイタリア諸侯、こぞって反発。
1570年3月5日
ピウス5世、この日のために1570年2月18日ローマに入ったコジモ1世・デ・メディチに、システィーナ礼拝堂でトスカーナ大公の冠を授与。
これに対し、当初は静観していたフェリペ2世が教皇の世俗権力への介入・干渉とコジモ1世・デ・メディチの権力の増大を懸念してナポリ王・ミラノ公の名で反対に回ったのを初め、1570年3月29日マクシミリアン2世も重ねて反対の意を表明。
1570年
フェリペ2世マクシミリアン2世の長女アナ・デ・アウストリア(1549年~1580年)と結婚。
1572年
1571年からこの頃までに(?)コジモ1世・デ・メディチ、自身のトスカーナ大公位をなお承認しないフェリペ2世マクシミリアン2世への反発を根にし、ピウス5世の支持を背にして使者をフランスに送り、まずLa RochelleLodewijkに、トスカーナ大公である自分とシャルル9世による反フェリペ2世マクシミリアン2世同盟を提示。次いでこの同盟案をG. de Colignyを介してシャルル9世に提示して同意を得るが、カトリーヌ・ド・メディシスの同意を得られる見込みがないとみて、最終的に撤回。
1574年4月21日
コジモ1世・デ・メディチ、近郊カステッロの別荘で死——長子フランチェスコ1世・デ・メディチ(1541年~1587年)、フランチェスコ1世・デ・メディチとしてトスカーナ大公となる(在位1574年~1587年)。(但し、マクシミリアン2世は翌1575年11月2日ようやくトスカーナ大公の称号を承認)。

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいバルバーラ・ダズブルゴ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
 きょうだいエレオノーラ・ダズブルゴ→子マルゲリータ・ディ・グリエルモ・ゴンザーガ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 マクシミリアン二世

外部リンク

 ウィキペディア
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 The Medici Archive Project

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『ハプスブルク家』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前