Guidobaldo II della Rovere

グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ

生没
1514年4月2日~1574年9月28日
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ
エレオノーラ・ゴンザーガ
ジューリア・ダ・ヴァラーノ
ヴィットーリア・ファルネーゼ
ヴィルジーニア・デッラ・ローヴェレ
フランチェスコ・マリーア2世・デッラ・ローヴェレ
イザベッラ・デッラ・ローヴェレ
ラヴィーニア・デッラ・ローヴェレ
ジューリア・デッラ・ローヴェレ

概要

 グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 ウルビーノ公 1539年~1574年
 セニガッリア領主

年表

1537年1月

ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの子・後継相続者グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレとカメリーノの正統継承資格者の1人ジューリア・ダ・ヴァラーノ(1523年~?)、ジューリア・ダ・ヴァラーノを自分の孫オッタヴィオ・ファルネーゼ(1524年~1586年)と結婚させ、カメリーノを自家領としてウルビーノ公を押さえたいパウルス3世の妨害——(破門(1535年2月)、カメリーノでの聖務禁止(1535年3月)、カメリーノの封与(1535年5月))——に対してウルビーノ公の承認の下で結婚し、カメリーノを事実上、領有。

1538年10月20/21日

ウルビーノ公ヴェネツィア軍総指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ死(1490年~:公在位1508年~1516年、1522/1523年~:ヴェネツィア軍総指揮官在位1523年~)——子グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ、ウルビーノ公となる(在位~1574年)。

1538年11月15日

パウルス3世、カメリーノの領有を続けるウルビーノ公グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレと妻ジューリア・ダ・ヴァラーノにカメリーノは教会直属領であると改めて主張し、領地返還を要求。

1539年1月初旬

グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレと妻ジューリア・ダ・ヴァラーノ、自分たちのカメリーノ領有権を支持するコジモ1世・デ・メディチの具体的支援も、父・故フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの健在時に得てきたヴェネツィアフェッラーラの支援も共に得られず、パウルス3世の強い要求に屈してカメリーノ領有を断念・放棄。代わりに報償金と、これまで拒否されてきたパウルス3世によるグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレのウルビーノ公への叙任を得る。

1539年

グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレのカメリーノ領有を支援したいコジモ1世・デ・メディチ、その意をカール5世に承認されず、具体的な行動を起こせずに終わる。

1542年1月

この月?、グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ、多額の報償金を得てカメリーノに対する全権利を教皇庁に委譲・放棄。

1555年8月15日

Carlo Carafaウルビーノ公グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレをCapitano generale della Chiesaに任命するなどローマでの戦闘に備える。

1571年5月20日

対トルコ十字軍の理念を唱えるピウス5世を中心に、ヴェネツィアフェリペ2世の三者、対オスマン・トルコ神聖同盟をローマで秘密裏に締結。

この神聖同盟とトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ、サヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアパルマ・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼウルビーノ公グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ、ジェノヴァ、マルタ騎士団とが提携し、直ちに共に同盟軍の編成に着手。

1574年

グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ死(1514年~:在位1538年~)——フランチェスコ・マリーア2世・デッラ・ローヴェレ(1548年~1631年)、ウルビーノ公となる(在位1574年~1631年:死後ウルビーノは教会領に併合される)。

チェーザレ・ボルジア数

 子フランチェスコ・マリーア2世・デッラ・ローヴェレ→妻ルクレツィア・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 ウィキペディア
 GeneAll.net
 JDA's Family Tree
 Treccani

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2008年5月24日