
- 生没
- 1450年頃~1503年2月22日
- 出身
- ローマ
- 没地
- ローマ
- 父
- ロレンツォ・オルシーニ
- 母
- クラリーチェ・オルシーニ
概要
ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
枢機卿 1483年11月15日~1503年2月22日
任命した教皇:シクストゥス4世
年表
1493年9月20日
この日チェーザレ・ボルジアが枢機卿に叙任される。私生児である彼を嫡出とするために、ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿とアントニオット・パッラヴィチーニ枢機卿はその任務に任命されていた。
1500年2月21日(金)
ローマ出発。カステッロまで行きチェーザレ・ボルジアを迎える。
1502年7月12日
教皇アレクサンデル6世に謁見し、ミラノにいるルイ12世のもとへ行く許可を願い出る。
1502年7月13日
1502年
ルイ12世から、アレクサンデル6世がオルシーニ家打倒を目指していると聞いたという。
1502年9月末
マジョーネの陰謀・同盟:マジョーネのジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ所有の屋敷にて、会合(1502年9月24日)。
出席者は、パオロ・オルシーニ、フランチェスコ2世・オルシーニ、ジャンパオロ・バリオーニ、ジェンティーレ・バリオーニ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、アントーニオ・ダ・ヴェナーフロ、オッタヴィアーノ・フレゴーソ、エルメス・ベンティヴォーリオ、オリヴェロット・エウッフレドゥッチ、ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノ。
1502年10月9日
マジョーネの会合、反ボルジア一族で共同行動を取ることなどを約定、攻守同盟を締結(1502年10月8日)。
チェーザレ・ボルジアに武装する時間を与えずすぐさま出撃することで合意。しかし、オルシーニはチェーザレ・ボルジアに雇われた兵を信用せず、また彼らを用いて攻撃することへの口実を見つけるまで待とうとする。早くもベンティヴォーリオはエルコーレ1世・デステを通じて、チェーザレ・ボルジアと秘密裏に交渉を持とうと試みる。
1502年10月下旬
マジョーネ同盟側、各員の思惑、利益の不一致から共同行動を取れず、内部不統一を露呈。チェーザレ・ボルジアに和睦を求める動き強まる。
1503年1月3日(火)
16刻(現9時1分)頃、アレクサンデル6世により、ヴァティカン宮殿鸚鵡の間で逮捕され、ノーナ塔に投獄される。
1503年
サンタンジェロ城に投獄される。
1503年1月15日
サンタンジェロ城にて、発熱。
1503年2月22日
サンタンジェロ城にて、獄死。
アレクサンデル6世の指示による毒殺と噂される。
サン・サルヴァトーレ・イン・ラウロ教会に埋葬。
関連項目
チェーザレ・ボルジア数
母クラリーチェ・オルシーニ→きょうだいエレーナ・オルシーニ→子ルドヴィーコ・ミリオラーティ→妻アドリアーナ・デル・ミラ→父ペレ・デル・ミラ→母カテリーナ・デ・ボルハ→きょうだいイサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア
別表記
ジャンバッティスタ、Giambattista、Gianbattista
外部リンク
GCatholic.com
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
THE BORGIAS wiki
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2005年5月29日以前