
- 生没
- 1476年~1497年6月15日
- 父
- アレクサンデル6世
- 母
- ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
- 妻
- マリーア・エンリケス
- 子
- フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス
イサベル・デ・ボルハ・イ・エンリケス
概要
フアン・ボルジアは、15世紀の男性、ガンディア公。
在位
第2代ガンディア公 1488年~1497年6月14日
先代:ペドロ・ルイス・デ・ボルハ
次代:フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス
セッサ公
先代:ジャンフランチェスコ・マリーノ・ダ・マルツァーノ→ナポリ領
次代:フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス
テアーノ、カリーノラ、モンテフスコロの君主
次代:フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス
教会の旗手 1496年10月27日~1497年6月14日
年表

1476年
生(1474年、1477年)。
1488年12月13日
バリャドリッドにて、マリーア・エンリケスと婚約。
1492年10月6日
フアン・ボルジアと彼の配偶者は何であれどの聴罪司祭からも赦免を得るとの小勅書が、父教皇アレクサンデル6世により発せられる。
1493年6月12日
妹ルクレツィア・ボルジアとジョヴァンニ・スフォルツァのヴァティカン宮殿での結婚式に参列。花嫁を迎えに行く役目を負う。服装は、金の浮き出し模様のついたラシャ地で仕立てられ、袖には大きな真珠の玉がぎっしりと刺繍されて、床まで届くほどに長い、見事な「フランス風トルコ服」。首にはルビーと真珠の首飾りを下げ、頭には、きらきら輝く宝石で飾られた帽子を被る。その5万ドゥカートもの衣装は人々の関心の的になる。ヴァティカン宮殿の中まで妹に付き添ってきた後、改めて彼女を迎えるために他の人々の中に混じる。ボルジアの間はそれほど広くなくため、異例な数の列席者で立錐の余地もないほどである。
1493年6月16日
ジョヴァンニ・スフォルツァと共に、スペイン大使に会う。スペインへ赴くための準備中。
1493年6月末
この頃フェルナンド2世・デ・アラゴンにより、彼の叔父の娘、寡婦マリーア・エンリケスとの結婚が提案される。
1493年8月2日
ローマを出発。ローマの金細工職人が数か月を費やして作った数々の装飾品を持参。
1493年8月4日
チヴィタヴェッキア到着。アレクサンデル6世からの手紙を受け取る。衣服の着用には気を使うこと、血色、毛髪にも注意すること、特にバルセロナに着くまでは手袋を常時着用するよう。海の水は肌を荒らすが、我々の郷国では美しい手は極めて重んじられると、手紙には説かれていた。スペインのガレー船に乗船。
1493年8月24日
マリーア・エンリケスとの結婚式、バルセロナでフェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャ両王の出席のもと盛大に挙行される(1493年8月31日)。
1493年12月4日
アレクサンデル6世に手紙を書く。
1494年5月8日
アルフォンソ2世・ダラゴーナにより、そのナポリ王戴冠式で、トリカーリコ公、キアラモンテとラウリアの伯爵領、シチリア王国についての王の代理官の地位を授けられる。と『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』ではされているが、おそらく事実ではない。
1496年6月
ガンディア出発、ローマへ向かう(1496年7月下旬)。
1496年8月10日
サン・ロレンツォの日。チヴィタヴェッキアからローマ到着。これできょうだい全員がローマに会する。「金の飾りと銀の鈴」のついた馬衣を纏った鹿毛色の馬に跨り、頭には真珠の飾りのついた緋色のビロードの帽子を被り、袖と胸に宝石と真珠の刺繍を施された褐色のビロードの服を着込んで、入城。
1496年9月12日
マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛の手紙に「ガンディア・セッサ公、テアーノの君主」と署名。
1496年9月15日
アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿に代わり、ヴィテルボ知事に就任。
1496年10月27日
教会軍総司令官、教会の旗手に任命される(1496年10月25日、1496年12月26日)。
1496年10月28日
ローマ出発(1496年10月26日)。
1497年1月23日
教皇軍は、ソリアーノでオルシーニ家軍、ヴィテッリ家軍との決戦に敗れる(1497年1月26日)。負傷し、ローマへ逃げ帰る。グイドバルド・ダ・モンテフェルトロは捕えられる。
1497年2月5日
1497年6月初旬
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ主催の宴会に出席。会食者たちを嘲笑し始め、時々は彼らを「食卓のろくでなしども」などと罵るに至る。これに対して彼が私生児であることを仄めかされると、その場を立ち去り、アレクサンデル6世のもとへ行く。教皇は兵士の一隊を派遣してスフォルツァ・チェザリーニ宮殿に門から押し入らせ、件の人物を捕らえさせると、即刻絞首刑に処す。
1497年6月14日(水)
サンティ・シルヴェストロ・エ・マルティーノ・アイ・モンティ教会とサンタ・ルチア・イン・セルチ教会の中間にある葡萄園の別荘の戸外で開かれたヴァノッツァ・デイ・カッタネイ主催の宴に出席。1か月ほど毎日のようにヴァティカン宮殿を訪れている仮面の男を連れている。夜更けに解散。
1497年6月15日(木)
スフォルツァ・チェザリーニ宮殿近くで、馬丁を立ち止まらせ、仮面の男を同じ馬に乗せ、武装した者たちを従えていくようにとの人々の言葉にも耳を貸さずに、彼らと別れ、ユダヤ人地区へ向かう。ユダヤ広場に着くと、馬丁を止まらせ、1時間の間に誰をも見かけなかったら、館に帰るようにと指示。
この夜から翌朝にかけて暗殺される。
ジョヴァンニ・ヤコポ・スキアッフィナーティ邸の近くにて、乗っていた馬が発見される。片方の鐙が切られていた。
夕刻、ユダヤ広場にて、馬丁が瀕死の状態で発見され、近隣の邸宅に運ばれた後、死。
1497年6月16日(金)
正午、ポポロ広場近くのテヴェレ川から死体が引き上げられる。手袋をし、30ドゥカートが入った財布はベルトにつけられたまま、宝石も失われてはいなかった。両手は結ばれ、顔は9つもの深い傷で引き裂かれ、その傷の1つは喉にまで達していた。泥まみれの死体はサンタンジェロ城に運ばれ、衣服を脱がされ、水で洗われ、公爵(教皇軍総司令官)の衣服で包まれる。
夜、百20の松明が照らす中、葬列はサンタンジェロ城を出て、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会の、恐らく、初代ガンディア公ペドロ・ルイス・デ・ボルハの遺体がすでに安置されていた翼廊の右側のチャペルに埋葬。ユリウス2世の時代に、両方の遺体ともガンディアに移される。
肖像
関連項目
The Borgias: 101, 102, 103, 104, 105, 106, 107, 108, 109, 201
チェーザレ・ボルジア数
きょうだいチェーザレ・ボルジア
別表記
ファン、ジョヴァンニ
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
チェーザレ・ボルジアとその周辺
歴史データベース
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kleio.org
THE BORGIAS wiki
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『サイレント・マイノリティ』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ボルジア家の黄金の血』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2005年5月29日以前