Tumulto dei Ciompi

チオンピの乱

概要

 チオンピの乱とは、1378年フィレンツェで起こった労働者の反乱。

原因

中小市民

 フィレンツェ共和国は毛織物、銀行などの商工業組合であるアルテを基盤としている。12の大アルテと9の小アルテからなり、いずれかのアルテに属していないと公職に就くことはできず、大アルテが小アルテに対し圧倒的優位を占めていた。チオンピとは、毛織物製造業者の下請けをする梳毛工(すきげこう)で、そのアルテに属さず参政権がない最下層の労働者の呼称である。14世紀に入ってからの対外戦争、不況、飢饉、黒死病の襲来は、とりわけ彼ら下層労働者や中小市民に深刻な打撃を与え、経済的な困窮から不満を募らせていた。

有力市民

 1375年7月から1378年7月には、教皇庁と争った八聖人戦争が起こっている。この戦争に当たって1375年8月に設けられた八人委員会は、グエルフィと激しく対立していた。
 1378年5~6月期の正義の旗手に選ばれたサルヴェストロ・ディ・アラマンノ・デ・メディチは、この政府の分裂状態を打開するために、ベネデット・デリ・アルベルティトンマーゾ・ストロッツィジョルジョ・スカーリなどの有力市民と組んで、アルビッツィ家をはじめグエルフィの幹部を攻撃。1378年6月中旬、扇動された中小市民によるグエルフィ有力者の館の焼き討ち事件が起こり、1378年6月末から7月にかけて、グエルフィによって公職追放されていた者たちが解除される一方、グエルフィの主だった者たちが公職追放処分を受ける。1378年7月18日、教皇庁から和平を告げる書簡が届く。グエルフィによる公職追放を解除された者たちと八人委員会は、チオンピの反乱を利用して政権奪還を図るのである。

経過

 1378年7月から9月にかけて3度にわたり、チオンピが小アルテに属する手工業者と手を組んで、大アルテ=グエルフィに対し暴動を起こす。この中にはチオンピであったドナテッロの父も参加していた。
 暴動鎮圧後、大アルテと小アルテが協力して新体制を築くことになるが、チオンピは八人委員会らの思惑を離れ、自らのやり方に従って要職を任命するようになる。チオンピであるミケーレ・ディ・ランド正義の旗手に就任し、手工業者と下層労働者の市政参加を保証するためにチオンピなどの3つの新たなアルテを創設。
 この新体制の中で、サルヴェストロ・ディ・アラマンノ・デ・メディチは表向きは中心的な役割を演じたが、実権はベネデット・デリ・アルベルティトンマーゾ・ストロッツィらの手中にあった。元々下層民への同情からではなく、この騒乱の中で冒険的な党派争いから暴動を誘発する挙に出たサルヴェストロ・ディ・アラマンノ・デ・メディチは、一時的に下層民衆の英雄に祭り上げられるが、やがて大アルテ=グエルフィの反動が強まると、1382年にミケーレ・ディ・ランドらと共に国外追放に処せられ、その政治生命はあっけなく断たれる。サルヴェストロ・ディ・アラマンノ・デ・メディチの扇動家的な政治行動は、下層民の立場に立った民主的な動機とは本質的に無縁であったが、ニッコロ・マキアヴェッリも伝えるように長くフィレンツェ市民の記憶に残り、中小市民の擁護者としてのメディチ家という政治的イメージの形成に寄与するのである。死の直前に許されて帰郷した。

終息

 反乱による新体制は4年間続いたものの、チオンピの過激化に恐れをなした穏健派の中小市民層の離反と敵対によって、1382年、ミケーレ・ディ・ランドサルヴェストロ・ディ・アラマンノ・デ・メディチが国外追放処分にされ、多くの者が処刑される。
 その後、トンマーゾ・ストロッツィジョルジョ・スカーリベネデット・デリ・アルベルティらが、一般大衆の人気に支えられてフィレンツェを3年間支配することになる。こうして再び有力市民層によるフィレンツェ寡頭支配体制が成立するのである。

別表記

 チオンピの反乱、チォンピの乱、チョンピの乱

外部リンク

 ウィキペディア
 紗瑠々の資料室
 ペルバッコ
 アートシティ「展」
 十四世紀フィレンツェのおける毛織物生産
 八聖人戦争期フィレンツェにおける政争と社会不安
 Treccani.it

参考文献

 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2008年9月22日