Francesco Maria Sforza

フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ

生没:1495年2月4日~1535年10月24日
出身:ミラノ
没地:ヴィジェヴァーノ
在位:ミラノ公 1521年~1524年、1525年、1529年~1535年
    先代:マッシミリアーノ・スフォルツァ
    次代:ドイツ領
父:ルドヴィーコ・イル・モーロ
母:ベアトリーチェ・ディ・エルコーレ・デステ
妻:クリスティーヌ・ド・ダヌマルク

概要

 フランチェスコ・マリーア・スフォルツァは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1495年2月4日
ミラノにて、生(1492年)。
1521年5月8日
レオ10世フランソワ1世との1月末の協定に対する批准が遅れる間にその意図に不信を強め、一転してカール5世と、そのナポリ領有を改めて認めること、メディチ家のトスカーナにおける支配領を含めて相互に領国を防衛し合うこと、フランソワ1世からパルマ、ピアチェンツァを奪還して教会領に併合し、同じくミラノを奪還してルドヴィーコ・イル・モーロの子フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ(1495年~1535年:ミラノ公在位1521年~1524年、1525年、1529年~1535年)に統合させること、自身のフェッラーラ攻撃、奪還及びナポリ領内の一部領地のアレッサンドロ・デ・メディチ(1511年~1537年:メディチ家当主1529年~1537年:フィレンツェ元首1531年~1532年:フィレンツェ公1532年~1537年)への封与をカール5世が支持すること、などにつき秘密裡に協定し、1521年5月28/29日批准。
1521年11月19日
プロスペロ・コロンナやペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらに指揮され、教皇特使ジューリオ・デ・メディチを加えた同盟軍の進撃を前に、ミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍及びTeodoro Trivulzio(1474年~1551年)ら指揮のヴェネツィア軍は、城塞に守備隊を残してミラノを撤退。同盟軍は、ミラノ公フランチェスコ・マリーア・スフォルツァの名でミラノを制圧。
以後、同盟軍は、ナヴァーラ、アスティ、アレッサンドリア、パヴィア、ローディ、クレモーナ、パルマ、ピアチェンツァを相次いで占領し、パルマ、ピアチェンツァを教会領に併合。
1523年7月29日
この頃、1523年4月頃以来カール5世から使節ジローラモ・アドルノを、その死後は同じくMarino Caracciolo(1469年~1538年)を送られ、協定を求められてきた上に1523年7月半ばからはハドリアヌス6世からも強く促されていたヴェネツィアは、求めに応じてカール5世フェルディナンド及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとミラノ防衛の協定を結ぶ。カール5世によるフランソワ1世の孤立化、そのイタリア侵攻阻止の態勢、さらに強まる。しかしフランソワ1世はイタリア侵攻の意を弱めず軍を強化。
1523年8月3日
イタリアにおける戦闘の終息及びオスマン・トルコの攻撃に対するキリスト教世界の防衛を期するハドリアヌス6世、イタリア侵攻、ミラノ奪還の意図を捨てようとしないフランソワ1世に対抗すべく、カール5世ヘンリー8世フェルディナンドフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、フィレンツェ、シエナ、ジェノヴァなどと同盟を締結。
1525年4月1日
クレメンス7世Charles de Lannoyは、クレメンス7世カール5世は共にミラノをフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに与えてこれの防衛に当たり、クレメンス7世Charles de Lannoyに軍資金を与え、Charles de Lannoyは教会領、フィレンツェ及びメディチ家を保護することなどを秘密裡に協定。5月1日または10日、ローマで公表される。この過程で、クレメンス7世の命に従いフィレンツェはペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに、ルッカとシエナはCharles de Lannoyに軍資金を支払う。
1525年7~8月
この頃カール5世フランチェスコ・マリーア・スフォルツァに、ミラノを正式に封与条件として巨額の金を要求。
1525年7~8月
フランソワ1世のスペイン護送などを巡ってCharles de Lannoyフェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスなどとの間に生じた不和を利用してカール5世陣営を分断し、その支配から免れようと企むフランチェスコ・マリーア・スフォルツァの副王Girolamo Morone(1470年~1529年)、密かにルイーザ・ディ・サヴォイアクレメンス7世及びヴェネツィアの支持・参加を得て反カール5世同盟を結成。フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに同盟軍の最高指揮官ともナポリ王ともするとの条件を示して彼を陰謀・同盟に引き入れる。
1525年11月12日
カール5世軍は、ミラノを再制圧。フランチェスコ・マリーア・スフォルツァは城塞に閉じ込められる。
1526年5月22日
コニャック同盟:クレメンス7世、ヴェネツィア、フランソワ1世及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァは、共にカール5世と戦うこと、ミラノ、ジェノヴァ、ナポリなどカール5世の配下の地を攻撃・奪還すること、ミラノはフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに、ジェノヴァとナポリはフランソワ1世に与えることなどについて合意し、フランス・アングレームのコニャックで秘密裡に同盟を締結。直ちに同盟軍を起こす。
1526年7月24日
フランチェスコ・マリーア・スフォルツァカール5世軍の包囲に耐え切れずミラノの城塞を明け渡し、ロディに撤退。ロディでコニャック同盟に自ら正式に署名。
1526年9月22/23日
コニャック同盟軍は、クレモーナを占領し、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァの配下に置く。しかし情勢の変化を招くには至らず。
1527年5月15日
イタリアをカール5世の配下に放置したくないフランソワ1世、ヴェネツィアと、共同でスイス人傭兵を雇うこと、自軍をイタリアに派遣すること、ヴェネツィアはフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと共に兵を調達することを協定。
1529年11月5日
ボローニャ会談:カール5世クレメンス7世の待つボローニャに着き、両者、直ちに会談を始める。以後、(1)フィレンツェ攻略、メディチ家のフィレンツェ復辟、(2)アルフォンソ1世・デステの支配するフェッラーラ、モデナ、レッジョに対するクレメンス7世の要求権、(3)カール5世フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ及びヴェネツィアとの和解などにつき断続的に会見を繰り返す。
この会見の帰趨次第で自己の運命が決まることを察知したイタリア諸国の君侯ないしはその使節たち、続々とボローニャに参集し、自国に有利な取り成しを得るべく画策。
1529年11月23日
フランチェスコ・マリーア・スフォルツァクレメンス7世に呼ばれてボローニャに着く。
1529年11月29日
フィリベルト・デ・シャロンは、フィレンツェ攻略に必要として求めたものの内、資金はクレメンス7世から継続的に与えるとの約束を得、軍はこの時すでにヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと和解することを決意したカール5世からそれによって不要となるロンバルディア駐在の軍を与えるとの約束を得、ボローニャからフィレンツェ市外の戦線に帰着。
1529年12月23日
スペインで予測していたよりもイタリアの、とりわけミラノやフィレンツェの軍事制圧が困難であることを認識したカール5世、軍事制圧に必要な巨額の費用、ドイツの宗教改革の波動、弟フェルディナンドの支配するオーストリアへのオスマン・トルコの再攻撃の危険などなどを考慮し、クレメンス7世の勧奨も受けて初めの方針を変更し、ヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと協定。ヴェネツィアはクレメンス7世にラヴェンナ及びチェルヴィアを、カール5世にナポリ領内のPugliaの占領地をそれぞれ返還すること。カール5世フランチェスコ・マリーア・スフォルツァに巨額の金でミラノを封与すること。
1529年12月23日
永久同盟:クレメンス7世カール5世フェルディナンド、ヴェネツィア、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァCarlo II (il Buono)フェデリーコ2世・ゴンザーガは、講和の同盟を締結。アルフォンソ1世・デステカール5世の裁定によってクレメンス7世と和解した後に同盟に加えられることに決められる。
これらの協定により、イタリアにおけるカール5世の覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおもフランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。
1532年12月15~20日
クレメンス7世カール5世、ボローニャで断続的に会見。カール5世は、(19ドイツの宗教上の対立を解決する唯一の策としての公会議の即時開催、(2)ジェノヴァ及びミラノをフランソワ1世から防衛するためのイタリア同盟の締結、(3)ミラノ防衛のためのカトリーヌ・ド・メディシスフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとの結婚を提案。
クレメンス7世は、(1)についてはキリスト教君主、諸侯、都市の事前の了解が必要との口実で回答を引き延ばし、(3)についてはフランソワ1世との合意を盾に回答を渋るなど、会見はカール5世の意を満たさぬ状態を続ける。但しカール5世は、3についてはフランソワ1世メディチ家などとの婚姻を重視することはあるまいと楽観。
1533年2月24日
クレメンス7世カール5世フェルディナンドフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ・ディ・サヴォイア、アルフォンソ1世・デステフェデリーコ2世・ゴンザーガ、ジェノヴァ、シエナ及びルッカは、イタリアの現状維持、Antonio de Leyvaを指揮官とするイタリア防衛の同盟軍の結成などを定めた同盟を公表。フィレンツェはクレメンス7世に従い事実上参加し、ヴェネツィアはオスマン・トルコと戦うことになるのを避けるべく旧同盟(永久同盟:1529年)を遵守するとして不参加。
1534年4月
カール5世フランチェスコ・マリーア・スフォルツァを自分の姪で前デンマーク王・ノルウェイ王・スウェーデン王Christian II(1481年~1559年:デンマーク王・ノルウェイ王在位1513年~1523年、スウェーデン王在位1520年~1523年)の娘Christina(1518年~1590年)と結婚させる。ミラノ市内で盛大な祝賀行事が行われる。
1535年10月24日
ヴィジェヴァーノにて、後継者を残さず死(1535年11月1日)。

肖像

 スフォルツァ家の祭壇画

別表記

 Francesco II Sforza

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Medici Archive Project
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

記載日

 2005年5月29日以前