Sforza Maria Sforza

スフォルツァ・マリーア・スフォルツァ

生没
1451年4月18日~1479年7月29日
出身
パヴィア
没地
ヴァレーゼ・リーグレ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ

概要

 スフォルツァ・マリーア・スフォルツァは、15世紀のイタリアの男性。

在位

 バーリ公 1464年~1479年
  次代:ルドヴィーコ・イル・モーロ
 モドゥーニョ領主 1464年~1479年
 パーロ・デル・コッレ領主 1464年~1479年

年表

1451年4月18日
パヴィアで生(1449年、1451年8月18日ヴィジェヴァーノ)。
1456年
フェッランテ・ダラゴーナの娘エレオノーラ・ダラゴーナと結婚?。これにより父フランチェスコ1世・スフォルツァは、ナポリ王国との連携を強める。
1471年3月上旬
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァフィレンツェ訪問に同行。
1475年1月
ヴェネツィアにいる。
1475年
ヴェネツィア滞在中にアントネッロ・ダ・メッシーナの作品を入手。特定はされていないが、画中に1475年と記載のある「傭兵隊長の肖像」ではないかと言われている。
1476年12月21日
ルドヴィーコ・イル・モーロと共に、フランスのトゥール到着。
1476年12月26日(木)
サント・ステファノの日。兄ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが暗殺される。
1477年1月下旬
フランスからミラノに到着する。弟ルドヴィーコ・イル・モーロとは別々に城門に到着。
兄の未亡人ボーナ・ディ・サヴォイアと書記官チッコ・シモネッタの統治下では、弟たちはスフォルツァ家の相続人として扱われていず、スフォルツァ城に入るためには誰であれ書記官の捺印がある許可証が必要で、しかも民間人の廷臣としてでなければ入れないようになっていた。橋の手前で馬から降り、側近を城外に残して、1人で武器を持たずに歩いて入城せざるを得ない。
1477年
ルドヴィーコ・イル・モーロと共に、ロベルト・サンセヴェリーノと直ちに手を組み、チッコ・シモネッタを公爵の部屋から書記局の執務室へと速やかに追い出す。
1477年2月初旬
3人の共犯者たちはエットーレ・ヴィメルカーティという名の男を雇い、城内のチッコ・シモネッタの部屋に忍び込ませ、暗殺しようとした。しかし、露見しており、エットーレ・ヴィメルカーティは捕らえられる。
1477年5月25日
チッコ・シモネッタが兵士を派遣して、ドナート・デル・コンテの家を包囲させ、モンツァの土牢に拘留。ロベルト・サンセヴェリーノが通りで民衆を煽動し、その間にチッコ・シモネッタを殺してスフォルツァ城を奪おうと計画していたことを自白。
夜、共謀者全員が揃った夕食の席にドナート・デル・コンテ拘留の知らせが届く。
1477年5月26日朝
ルドヴィーコ・イル・モーロアスカーニオ・マリーア・スフォルツァオッタヴィアーノ・マリーア・スフォルツァと共に、摂政ボーナ・ディ・サヴォイアに対し、ドナート・デル・コンテを即座に釈放するよう要求。署名した協定に背き、武装した姿で現れたことは詫びた。
1477年6月1日
バーリへの追放処分が決定される。
1479年1月12日
ナポリフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。
1479年1月
フェッランテ・ダラゴーナから提供された数隻のガリオン船で、ミラノへ向けナポリを出発。
1479年夏
病に倒れる。
1479年7月
ヴァレーゼ・リーグレで没(1479年7月27日、1479年7月29日)。信じがたいほどの肥満により亡くなったとされる。
1479年7月24日
ボルゴ・ヴァル・ディ・ターロにて、ジローラモ・スタンガがミラノ公宛に手紙をしたため、バーリ公の死を伝える。

外部リンク

 Genealogy.EU
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2019年11月16日