- 生没
- 1491年12月24日~1556年7月31日
- 出身
- ロヨラ
- 没地
- ローマ
概要
イグナティウス・デ・ロヨラは、15世紀~16世紀の男性、イエズス会創立者。
年表
1491年12月24日
スペイン北部バスコンガーダス バスク地方ギプスコアのアスペイティア近郊ロヨラ城に生(1491年頃)。
1521年5月20日
フランソワ1世のNavarra攻撃に対してPampelona城塞を守備していたイグナティウス・デ・ロヨラが負傷。その療養中、回心し、「神の騎士」となることを期する。
この頃?、レオ10世は、フランソワ1世のジェノヴァ支配を打倒すべく、ジェノヴァから追放されているアドルノ家などにカール5世から借りた軍を与えてジェノヴァを攻撃させるが、攻撃を察知して防備を固めていたオッタヴィアーノ・フレゴーソ指揮の軍に撃退される。
1534年8月15日
1528年以来パリ大学の学んでいたイグナティウス・デ・ロヨラ、同志F. Xavier、Petrus Faber(Pierre Favre (Lefèvre):1506年~1546年)、Nicolaus Bobadilla(1511年~1590年)、Diego Laynez((Lainez), Jacobus Laynez:1512年~1565年)、Alfonso Salmerón(1515年~1585年)、Simão (de Azevedo) Rodriguez(?~1585年)と共にパリのモンマルトルの丘で清貧、貞潔、聖地巡礼、教皇への絶対服従、救霊事業への献身の誓願を立て、新たな修道会の基を築く。
1537年6月24日
イグナティウス・デ・ロヨラとその同志5名、パウルス3世の格別な計らいと認可により、通常は10年を要する叙任過程を2週間で完了し、司祭に叙任される。
1537年9/10月
パリのモンマルトルにおける誓願(1534年)に従い聖地巡礼に向かうべく1537年1月ヴェネツィアで会したイグナティウス・デ・ロヨラとその同志9名、ヴェネツィア・トルコ両軍の対峙により巡礼船出航が不可能となったため、1年間イタリア各地で使徒活動に従事することに方針を変更すると共にサークルの名称をイエズス信徒会(Compañia de Jesús)と決める。
1539年9月3日
イグナティウス・デ・ロヨラらのイエズス信徒会、正式の修道会としての許可を得るべく、枢機卿G. Contariniを介して5か条からなる会掟草案をパウルス3世に提出。
1539年10/11月
イグナティウス・デ・ロヨラらイエズス信徒会メンバー、1538年と同じく1539年も聖地巡礼船の出航が不可能となったため、その活動の方向をパウルス3世の意に委ねることにし、その決定に従って世界各地での福音宣教に奉仕することを決める。
1541年4月19日~1541年4月23日
イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会初代総長に就任(在位~1556年)。
1548年7月31日
パウルス3世、イエズス会の活動の精神的源泉として自己の魂の浄化、意志の発見、神の意志への完全な献身を説くイグナティウス・デ・ロヨラのEjercicios espirtuales(心霊修業(霊操))を、全篇くまなく敬神の心と至誠に満ちた書だと絶賛し全信徒にこの書から学べと勧奨する勅書を発すると共に、直ちにこの書を刊行させる。
1549年
フランシスコ・ザビエル、日本への伝道開始。
1552年8月31日
自身の発案によるドイツ語圏の司祭の教育のためのCollegium Germanicum(ドイツ学院)の設立が、ユリウス3世により認可される。
1556年7月31日
ローマで死。
本名
Iñigo de Oñez y Loyola
別表記
イグナティウス・ロヨラ
外部リンク
参考文献
『新世紀ビジュアル大辞典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス百科事典』
『ローマ教皇検死録』
『Lucretia Borgia』
記載日
2005年5月29日以前